さ行の作曲家

シベリウス

♪ サティ 1866.5.17(慶応元年)~1925.7.1(大正14年)

 私に退廃的な中にも優しさや落ち着きを感じさせる作曲家エリック・サティ。代表作に『ジムノペディ』『グノシエンヌ』『ジュ・トゥ・ヴ』などがあるフランスの作曲家。  音楽界の異端児、音楽界の変わり者などと称されています。西洋音楽に大きな影響を与えており、ドビュッシー、ラヴェルも影響を公言しています。そして、印象主義の作曲家たちにも影響を与えたとされています。

♬ パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノペディ』『グノシエンヌ』などを発表。カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、コクトーやピカソと交流。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書いています。よく知られる『ジュ・トゥ・ヴ』はこの時の作品。薔薇十字教団と関係し、いくつかの小品を書いています。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いています。

♬ なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって、客の邪魔にならない演奏・家具のように存在している音楽というのは重要な要素だった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえます。

♬ また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』『蚊を取った』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られています。

♬ フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていました(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。

♬ ドビュッシーとの交友関係もよく知られています。

♪サティが生まれた時の世界は

♬ 前年(1865年)には「魔法使いの弟子」などを作曲したデュカスやフィンランディアや交響曲などで有名なシベリウスが誕生。キャロルが「不思議の国のアリス」を発表しています。

♬ 誕生翌年にはパリ万国博覧会に日本から幕府と薩摩藩、佐賀藩が出展しています。その後大政奉還となり明治天皇が即位しています。

♪サン=サーンス  1835.10.9(天保6年)~1921.12.16(大正10年)

シャルル・カミーユ・サン=サーンスは、フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト。 内務省に勤める官吏の家庭の生まれ、生後数ヶ月で父親は亡くなり、母親と大叔母に育てられる。

モーツァルトと並び称される神童で、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われています。 また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き、16歳で最初の交響曲を書きあげています。1848年に13歳でパリ音楽院に入学して]作曲とオルガンを学んでいます。

音楽家として、作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍するいっぽう、少年のころからフランス古典やラテン語を学んだほか、詩、天文学、生物学、数学、絵画などさまざまな分野に興味を持ち、その才能を発揮しています。

文筆家としての活動は多岐にわたり、1870年代以降は音楽批評家として多くの記事を書いているほか、哲学的な著作、一定の成功を収めた詩や戯曲などを残しており、自作の詩による声楽作品も少なからず存在しています。

旅行好きとしても知られ、異国風の音楽は、「アルジェリア組曲」やピアノ協奏曲第5番「エジプト風」など多くの作品に取り入れられている

私生活では1875年、弟子の妹であったマリ=ロール=エミリ・トリュフォと結婚し二児をもうけているが、1878年には息子たちが相次いで亡くなり、1881年には妻と事実上離婚しふたたび母親と暮らしている。1888年に母親が亡くなってから14年のあいだは定住地を持たず、各地を旅行して過ごした。

『動物の謝肉祭』は全部で14曲からなり、元来は室内楽編成用として作曲されたものでした。1886年にチェリスト、シャルル・ルブーク(英語版)の催すプライヴェートな夜会のために作曲された。初演は同年3月9日、オーストリアのクルディムにて、サン=サーンス、ルイ・ディエメのピアノ、ルブークのチェロ、ポール・タファネルのフルートなどにより非公開で行われた。その後、同年内に2度非公開で演奏されたが、他の作曲家の楽曲をパロディにして風刺的に用いていること、プライヴェートな演奏目的で作曲されたいきさつなどの理由により、以降サン=サーンスは自身が死去するまで本作の出版・演奏を禁じていました。ただし純然としたオリジナルである「白鳥」だけは生前に出版しています。現在では、プロコフィエフの『ピーターと狼』やブリテンの『青少年のための管弦楽入門』と並ぶ、子供向け管弦楽曲の代表的作品としても人気があり、時に自由な物語を添え、語り付きで演奏することがあります。

♪『動物の謝肉祭』の風刺

第4曲「亀」 オッフェンバックの『天国と地獄』の旋律をわざとゆっくり演奏。

第5曲「象」 ベルリオーズの『ファウストの劫罰』から「妖精のワルツ」、メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』から「スケルツォ」が重低音で組み入れられています。

第8曲「耳の長い登場人物」 サン=サーンスの音楽に嫌味な評価を下していた音楽評論家への皮肉といわれています。

第11曲「ピアニスト」 わざとへたくそに、ピアノの練習曲を弾く。最後は明確な区切りもなく、そのまま次の曲へ入ります。

第12曲「化石」 自作『死の舞踏』の「骸骨の踊り」の旋律、ロッシーニの『セビリアの理髪師』から「ロジーナのアリア」、その他「大事なタバコ」、「きらきら星」、「月の光に」、「シリアへ行く」などのフランス民謡が組み合わされています。

♪サン=サーンスが生まれた時の世界は?

♬ 日本近代郵便創設者の前島密誕生(2.4)(天保6年1月7日)

♬ 医師の華岡青洲没(11.21)(天保6年10月2日)

♬ フランスの印象派の画家エドガー・ドガは一歳年上です。

♬ サーンスが生まれた翌年に大塩平八郎の乱が起こっています。

♪シベリウス 1865.12.8(慶応元年)~1957.9.20(昭和32年)

ジャン・シベリウスは、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。

フィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められており、フィンランドが帝政ロシアからの独立を勝ち得ようともがく最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与したと看做されることも多い。 シベリウスは交響曲と交響詩、中でも『フィンランディア』や『カレリア組曲』によって広く知られています。

父クリスチャンは医師でしたが、シベリウスが2歳の時に他界。シベリウスは完全な女性中心の環境に育ちます。唯一、男性的な影響を与えたのはおじのペール・フェルディナンド・シベリウスであり、彼は音楽、とりわけヴァイオリンに関心を持っており、10歳になった少年にヴァイオリンを与え、後に作曲への興味を持ち続けるよう激励した人物。

 酒好きで放蕩家の記事を 新婚旅行の最中にホテルに帰らず飲み明かした……金もないのに自宅にサウナを作ったり財産崩壊している云々…… 人柄はよく愛される存在だった?!

♬ 『フィンランディア』は当初の曲名が「フィンランドは目覚める」で、新聞社主催の歴史劇の伴奏音楽を8曲からなる管弦楽組曲とし、その最終曲を改稿して独立させたものでした。フィンランドへの愛国心を沸き起こすとして、帝政ロシア政府がこの曲を演奏禁止処分にしたのは有名な話。

♬ フィンランドでは、2002年にユーロが導入されるまで100マルッカ紙幣にシベリウスの肖像が描かれていた

♬ シベリウスは自然を愛し、フィンランドの風景はしばしば彼の音楽の題材となっています。

♬ シベリウスは91歳で生涯を閉じました。死因は脳内出血でした。彼が息を引き取ったその時、彼の交響曲第5番がヘルシンキからラジオ放送された。また時を同じくして開催されていた国連総会では、議長が黙祷を呼びかけ、こう語りかけた。「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです。」

♪シベリウスが生まれた時の世界は?

♬ 「魔法使いの弟子」を作曲したポール・デュカス(10.1)とは同じ歳です。

♬ 「不思議の国のアリス」(キャロル著)が出版されています。

♬ アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが奴隷制全廃に署名。(2.1) リンカーン大統領暗殺される。(4.14)

♪ シューベルト 1797.1.31~(寛政9年)1828.11.19(文政11年) 

♬ フランツ・ペーター・シューベルトは先輩モーツァルトに類似していたようで、背は低く、顔色が冴えず、全体に堂々としたところがなく、なにか貧相な感じの男性でした。モーツァルトと違ったのは女性に対しても小心者だったことと都会好みの感覚がなかったことかも?!

♬ シューベルトは友人の下宿先で寝ずに作曲し、午後は貴族の館をまわり夜は演奏会場へ、それからは夜の街での乱痴気騒ぎが日課となっていたようで身体を清潔にするという習慣が無かったようでした。お風呂は一か月はおろか年に数えるほどしか入っていなかったようです。

♪シューベルトの容姿、性格 

 身長154㎝強、ずんぐり型。豊かな褐色の巻き毛と濃い眉毛と明るい茶色の瞳、団子鼻、太く短い首、小さな手足、近眼の無邪気なお人好だったようです。

♪シューベルトの作品

 シューベルトは「歌曲の王」と言われるように、31歳という短い生涯の中で600曲以上の歌曲を作曲しました。これだけの曲をおよそ15年間の間に作ったのですが、単純計算しても一年に40曲もの作品を作曲したことになります。 また、歌曲以外にも彼は,室内楽やピアノ、それに交響曲の分野にまで数多くの作品を残していますから、彼の作品を仕上げるスピードはかなり早かったということができます。

♬ 彼が18歳の時に作った有名な歌曲に「魔王」という作品がありますが,この曲を作った時には、この詩を偶然ある本の中で見つけて、それを大きな声で読みながら部屋の中をうろうろと歩き回り、それから机に向い、一気に曲を書上げたのでした。彼はこのように、気に入った詩に出会った時には、2・3回くり返してそれを読むとすぐにメロディーが浮んでくるので、詩を見つけて作曲し終るまでに一時間とはかからなかったそうです。

♬ ところで、彼はいつもピアノなしで作曲をしていました。これは彼が、別にピアノが嫌いだったわけではなく、ピアノを持てるほど裕福な生活ではなかったということなのです。しかし、後でピアノ伴奏をつけて演奏した時にも、その楽譜はほとんど手を加える必要はなかったのでした。

♪シューベルトが生まれた時の世界は?

♬ オペラ作曲家ドニゼッティと江戸時代の版画家安藤(歌川)広重が同じ歳です。

 シューマン 1810.6.8(文化7年)~1856.7.29(安政2年)

  ロベルト・シューマンはドイツのツヴィッカウの生まれ。ドイツ・ロマン派を代表する作曲家であり、ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残しています。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高いのです。 ツヴィッカウの裕福な家庭に生まれ、ライプツィヒ大学の法科に進みますが、ピアニストをめざしてフリードリヒ・ヴィーク(1785年~1873年)に師事。しかし、指の故障によりピアニストを断念し、作曲家になっています。

♬ トロイメライで有名な「子どもの情景」は全13曲収録されていますが、「子供心を描いた、大人のための作品」として書かれています。

♬ 作曲家としてヴァイオリニストのパガニーニを尊敬していたようです。

♬ ヴィークの娘でピアニストのクララ(1819年~1896年)との恋愛と結婚はシューマンの創作活動に多大な影響を及ぼしています。

♬ 1854.2.10の夜に、彼は激しい耳の痛みに襲われます。4日後、ヴァイオリニストのベッカーと同席したシューマンは、レストランで手にしていた新聞を置いて「とてもこれ以上読んでいられない。A音(ラの音)が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と言っています。  その後も発作と小康状態を繰り返し、2月26日夜、シューマンはもはや分別を保てず、このままでは妻や子供たちを傷つける恐れがあるとして自分を精神病院に入れるように言い、身の回りの整理を始めます。そして翌2月27日、クララと医師が話し合っている隙にシューマンは家を抜け出し、ガウンとスリッパのままの姿でライン橋まで行き、ライン川に身を投げましたが、シューマンが川に飛び込むところを漁師が目撃しており、彼は救助されています。

♬ 21歳のショパンがパリデビューする直前にショパンが17歳の時に作った「お手をどうぞによる変奏曲」を知ってシューマンは自ら創刊した音楽新聞に「諸君、脱帽したまえ、天才である」と絶賛の評論を載せています。ショパンと同じ年のシューマンは既に評論家としても活躍していました。(この新聞は現在も出版され続けています)

♬ 収入は作曲よりも文筆活動の方が多かったようです。

♪シューマンの容姿、性格

♬ 大柄で髪は豊かで暗褐色。広い額、廃血色の瞳、幅広の鼻、理性的な表情、優雅、近視、小声、悪筆家、一見内省的だが情熱一直線の典型的な「男」。 躁鬱が激しい。

♪シューマンが生まれた時の世界は?

♬ ショパンとは同じ歳です。

♬ 日本では蘭学者の緒方洪庵(8.13)(文化7.7.14)と侠客の国定忠治(日付不明)が生まれています。

♬ メンデルスゾーンは一歳年長。リストは一歳年少です。

♪ シェーンベルク 1874.9.13(明治7年)~1951.7.13(昭和26年)

♬ アルノルト・シェーンベルクの父はハンガリー生まれのユダヤ人。母はプラハ生まれのユダヤ人で、ウィーン(オーストリア=ハンガリー二重帝国)に生まれ(現在名はオーストリア共和国)、アメリカ合衆国ロスアンゼルスで亡くなっています。

♬ 彼はバッハやモーツアルトを尊敬していましたが、西洋音楽が求めてきた美しいハーモニーとメロディーを破壊し、無調という、人類の究極の音楽であり、また、人間は美しいものに感動するという根本的な考え方さえも変えてしまう衝撃的な音楽を作り上げました。

 人類の歴史にたとえば、初めて二本足で立ったのがベートーヴェンだとすれば、さらに逆立ちで歩く、という考え方を提示したのがシェーンベルクだといえるのではないでしょうか。

♬ 1912年に作曲した無調時代の傑作『月に憑かれたピエロ』作品21が発表されたことにより、プッチーニに「もはやオペラに未来はない」と言わしめ、R.シュトラウスは前衛性を翻して古典に回帰していきました。そして、固い信念を持って19世紀の音楽を書き続けた作曲家エルガーやシベリウスらは歴史からその名を抹殺されていくことになってしまうのでした。

♬ 彼は音楽を作るとき、ある音の存在が中心になることを嫌い、12の音全てを公平に使わなければならないと考え、『5つのピアノ曲 作品23』(1920-1923)を作曲しました。これは無調から十二音技法への過渡期の作品になりました。

♪シェーンベルクの容姿、性格   

♬ 背は低く、中肉、禿頭、出目、への字口、意志強固な顔つき、ある種使命感あふれる顔つき。(救世主? 狂信者?) 性格は極端に排他的で、所有欲が強く、気難しく、頑固、怒りっぽかったようです。(これらの性格は最初の妻の不倫事件やユダヤ人迫害によりますます屈曲していったようです。)

♬ 趣味はテニスと卓球で、自宅に卓球台を置いて接客道具にも使っており、名人芸に達するほどの腕前だったようです。

♪シェーンベルクが生まれた時の世界は?

♬ 誕生の前年にラフマニノフが、翌年にラヴェルが生まれています。

♬ ロシアではトルストイの「アンナ・カレーニナ」が発表されています。

♬ 日本では警視庁が設立され、板垣退助らが国会設立を要請しています。読売新聞が創刊しています。

♪ ショスターコーヴィッチ 1906.9.25(明治39年)~1975.8.9(昭和50年) 

 ドミートリイ・ショスタコーヴィチはソビエト連邦時代の作曲家でシベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家。弦楽四重奏曲においても素敵な曲を残しています。 芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人です。

♬ ショスタコーヴィッチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いでのですが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残しています。

♬ 当初、体制に迎合したソ連の作曲家というイメージで語られていましたが、『ショスタコーヴィチの証言』が出版されて以後、ショスタコーヴィッチは皮肉や反体制といったイメージによって塗り替えられ、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した、悲劇の作曲家」として西側諸国における演奏の機会も急激に増加したようです。

♬ 昔大人気だったテレビ番組「部長刑事」(放送は大阪だけ?)の冒頭に使われていた音楽が「交響曲第5番」第4楽章の冒頭なのです。実はショスタコーヴィッチが交響曲第4番を作曲(1935年)した際、当局に酷評され粛清の恐れがありました。(第4番の初演は26年後の1961年でした)。そして苦悩の末、第5交響曲を1937年に初演しました。そしてこの曲をスターリンらソ連政府首脳が歓迎したため一命を取り留めたともいわれています。しかし、ショスターコーヴィッチはこの作品の中で最終楽章のまさにエンディングで弦楽器を始め多くの楽器が一斉にA(ラ)の音を続けて演奏するのです。これはまさにロシア語で否定を意味する言葉に通じる痛烈な政治批判なのです。(作曲家は音符にメッセージを込めることができるのです。)

♬ 第一次世界大戦時に受けた傷によって、金属の破片が左脳の側頭葉に残ったままになっていたらしいです。

♬ 交響曲第5番の演奏で私のお勧めはレナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏です。作曲者自身が会場で聞き、大変感激してステージに上がってこの指揮者と握手をしたという逸話があります。

♪ショスターコーヴィッチが生まれた時の世界は?

♬ 彼が生まれた年にノーベル物理学賞の朝永振一郎(3.31)も生まれています。島崎藤村が「破壊」を発表。鉄道国有法が発布され日本鉄道が国有化されました。

♬ 島崎藤村が「破壊」を発表。鉄道国有法が発布され日本鉄道が国有化されました。

♪ ショパン 1810(文化7年). 3.1(2.22{出生証明の日付})~1849.10.17(嘉永2年) 

 「子犬のワルツ」、「別れの曲」、「雨だれ」「序奏と華麗なるポロネーズ」、「革命のエチュード」「英雄ポロネーズ」などで有名なフレデリック・フランソワ・ショパン。貴方はどの曲がお好きでしょうか? ショパンはフランス人の父とポーランド人の母の元に生まれたポーランド人です。ヨーロッパでピアニストとして、また、作曲家として活躍し作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占めており「ピアノの詩人」と呼ばれています。ポーランドへの強い愛国心から、ポーランド民族舞踊であるマズルカを58曲、ポロネーズを18曲も作曲しています。今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人ですね。 元来丈夫ではなく最後は肺結核で亡くなっていますが、ショパン自身の遺言で心臓はポーランドに持ち帰られ、ワルシャワにある聖十字架協会に収められています。

♬ 下校時間の放送にも使われている「別れの曲」は1795年動乱の時代にポーランドを追われフランスに移住するようになったため、二度と帰られないであろう祖国ポーランドを想い作られた曲だったのです。

♬ 演歌「北の宿から」はショパンの「ピアノ協奏曲第1番」の第1楽章に倣って作曲されたのでは!?(一度聴き比べてみてください。ビックリです。)

♪ショパンの容姿、性格

 中肉中背で金髪碧眼、鼻筋が通り面長。かすれた小声、手指は小さい。人々の耳目を集める中心人物でやや意地悪。

♪ショパンってどんな人?

♬ ショパンはバッハやモーツァルトを尊敬していました。上品な顔立ちで優雅な物腰、漫画好き、声帯模写、会話にたけ上流階級に愛され、お洒落な人でした。そしてウブさで母性本能をくすぐるタイプの人でした。

♬ 音楽史上ピアノを歌わせることをはじめた人として特筆される人ではないでしょうか。でもピアニストなのに不思議と手指は小さい人のようでした。

♬ 経済的に収入は着実に増えましたが稼いだお金は派手に使う性格の人のようでした。

♬ 私生活では6歳年上のジョルジュ・サンドと内縁関係にありましたが、セックスレス・カップルだったとも言われており、ショパンは生涯結婚しませんでした。

♬ 彼女とマジョルカ島に愛の逃避行(病気の回復を祈って?)をするのですがショパンの耐え難い不安を象徴して作られてのが「雨だれ」でした。そして彼女と別れたのち、病状はさらに悪化していきました。

♬ ショパンは死を目の前にして「なにかよい音楽を弾いてくれませんか……モーツァルトでも……」と言ったとか……

♪ショパンが生まれた時の世界は?

♬ シューマンとは同じ歳です。

♬ 日本では蘭学者の緒方洪庵(8.13)(文化7.7.14)と侠客の国定忠治(日付不明)が生まれています。

♬ メンデルスゾーンは一歳年長。リストは一歳年少です。

♪ ジョン・ウィリアムス  1932.2.8(昭和7年) ~  

 アメリカ合衆国ニューヨーク出身の作曲家、指揮者。ギタリストのジョン・ウィリアムズは同姓同名の別人です。  1952年にアメリカ空軍に徴兵され、アメリカ空軍では音楽隊に所属し編曲と指揮を担当。1955年に兵役を終えジュリアード音楽院ピアノ科へ進学。ジュリアードでロジーナ・レヴィーンに師事。ジュリアード在学時よりジャズピアニストとして活動。テレビシリーズ『ピーター・ガン』(1958年)のサウンドトラック(ヘンリー・マンシーニ作曲)にピアニストとして参加。

♬ アーウィン・アレン監督のテレビシリーズ『宇宙家族ロビンソン』(1965年)、『タイムトンネル』や映画『チップス先生さようなら』(1969年)、『屋根の上のバイオリン弾き』(1971年=アカデミー編曲賞)、『ポセイドン・アドベンチャー』(1972年)等の音楽担当として注目され、スティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』(1975年)の音楽がアカデミー作曲賞を受賞。名実ともに映画音楽の第一人者となりました。一連のスティーヴン・スピルバーグ作品、ジョージ・ルーカス監督の映画『スター・ウォーズ』シリーズ、の他にも『ハリーポッター』の音楽がよく知られていますね。

♪受賞歴

• アカデミー賞 5回(作曲賞 4回・編曲賞 1回)

   o アカデミー賞ノミネート48回は現役の映画人の中で最多。

   o ノミネート止まり42回も史上最多。

• エミー賞 2回 • グラミー賞 18回

• ゴールデングローブ賞 4回

♪ジョン・ウィリアムスが生まれた時の世界は?

♬ 同じ歳では作曲家の冨田勲、小林亜星、山本直純が、ピアニストではグレン・グールドがいます。

♬ ロサンゼルスオリンピック大会で陸上男子三段跳び 南部忠平が金メダル

♪ ジョン・ケージ 1912.9.5(大正元年)~1992.8.12(平成4年) 

 ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニアは、アメリカ合衆国ロサンゼルスに生まれる。音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えています。

 独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげた。「沈黙」を含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』があります。

♬ 1933年から、現存する最初の作品を創る。1937年の文章「音楽の未来 クレイド」(『サイレンス』所収)では、電気楽器の可能性、ノイズの重視、実験的音楽センターなどのアイディアを述べています。

♬ 1940年に、グランドピアノの弦に異物(ゴム・木片・ボルトなど)を挟んで音色を打楽器的なものに変化させたプリペアド・ピアノを考案し、『バッカナル』で初めてこの楽器を用います。このころからアイディアが最優先する発明作品が増え、居間にある全ての物体を叩いて音楽を作る『居間の音楽』、ピアノの蓋を閉めて声楽を伴奏する『18回目の春を迎えた陽気な未亡人』などを作曲しています。

♬ 1945年からの2年間、コロンビア大学で鈴木大拙に禅を2年間学び、東洋思想への関心も深めています。

♬ 音楽の師であるシェーンベルクに弟子入りするとき「一生を音楽に捧げる気があるか」と問われた。ケージは「はい」と答え、シェーンベルクのもとで2年間音楽を学んでいます。

♬ その後、シェーンベルクはケージに「音楽を書くためには、和声の感覚をもたなければならない」と言った。それを聞いたケージは自分が和声の感覚を全くもっていないことをシェーンベルクに告白した。すると、シェーンベルクは「それは君にとって音楽を続けることの障害になるだろう。ちょうど通り抜けることのできない壁につきあたるようなものだ」と伝えると、ケージは「それなら、私は壁に頭を打ち続けることに一生を捧げます」と答えた。

♪人物像

♬ 生活は貧しく、師のシェーンベルクが50歳過ぎでもアメリカで奨学金を追い求めて苦労したように、幼稚園児の送り迎えのアルバイトをしていたと言われます。50歳を過ぎた頃にはケージは既に著名な存在でしたが、自分のネームバリューをわかっていてもそのような仕事をやりたがる気質でした。

♬ どこへ行くにもボロボロの普段着で出かけ、電話帳にも実名を載せたために普通のファンの電話もマネージャーを介さず全て自分で取った。このことが仇となり、晩年にはただの老人と誤認されて強盗に襲われた経験を持っています。

♬ いつもニコニコと笑っており「ケージ・スマイル」(一柳慧の日本語訳は「啓示微笑」)と親しまれたが、1970年のフランスでの討論の際は、無感動な表情をとり続けていると指摘されたこともある。当日のケージは、感情から自由になることを説いていました。

♬ 京都賞受賞時に「絶対に正装はしない!シャツとジーンズで出る」と言い張り、関係者との間でトラブルになった。このとき、「日本の伝統衣装、たとえば羽織袴なら」というスタッフのアドヴァイスに好意を抱き、羽織袴着用での受賞となりました。

♬ 死ぬ最後の朝も、いつもの様に事務所の雑用をこなしていたと言われています。

♪音楽についての考え

♬ 実験音楽においては、音以外に何も起らない。楽譜にない音は沈黙となって現われるが、外界に生じる音に対して開かれていることを意味する。音は常に存在しており、音はあるがままにして聴くべきである。そして実験的な行為は、通知された行為とは異なり、物事をあるがままにとらえるとしている。こうした考えは、無響室での体験がもとになっている。

♬ 音楽という言葉を、「音の組織化」という表現に置き換えようと提案した。音楽という表現は、18世紀から19世紀にかけて完成された楽器を使ったものに使われすぎていると考えた。

♬ 作曲者、演奏者、聴衆の関係 ケージの作品は、演奏者によって内容が大きく異なる。彼は演奏者が作曲者になり、聴衆が演奏者になり、作曲家が聴衆になり、音によって互いに浸透すると考えた。

♬ レコードを用いた作品を発表したが、自作をレコードに録音することには積極的でなく、レコードを「景色を台無しにしてしまう絵葉書」と呼んだ。

♪ジョン・ケージが生まれた時の世界は?

♬ 4.5 タイタニック号沈没  7.3 通天閣完成  7.7 カルピス販売開始  7.30 明治天皇崩御

♪ ジョン・レノン 1940.10.9(昭和15年)~1980.12.8(昭和55年)

 イギリス出身のシンガーソングライター・ギタリスト。ビートルズにおいてボーカル・ギターなどを担当しレノン=マッカートニー名義で作詞作曲をした。ビートルズ解散後はソロとして主に小野洋子と活動した。シンシア・レノンとの間に生まれた長男ジュリアン・レノンと小野洋子との間に生まれた次男ショーン・レノンがいます。

出生名はジョン・ウィンストン・レノン。小野洋子との結婚に際しジョン・ウィンストン・オノ・レノンに改名。1965年にMBE・大英帝国第5級勲位を受賞したが、のちに英国のベトナム戦争支持を理由に返上しています。

  ビートルズを立ち上げたリーダーであるほか、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、多くの楽曲を製作しメイン・ヴォーカルを務めた。1970年のビートルズ解散後はアメリカをおもな活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家の小野洋子とともに平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止したあと1980年に活動を再開するも、同年12月8日23時ごろ(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗る男性に射殺されました。

  『ギネス・ワールド・レコーズ』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。リード・ボーカルをとる「プリーズ・プリーズ・ミー」「ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」「涙の乗車券」「デイ・トリッパー」「恋を抱きしめよう」「ノルウェーの森」「カム・トゥゲザー」「ジョンとヨーコのバラード」「ドント・レット・ミー・ダウン」などを発表、またソロ時代は「ラヴ」「イマジン」「「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」などを発表した。カバー曲の「スタンド・バイ・ミー」「ビーバップ・ア・ルーラ」も出しています。

 1967年6月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で「愛こそはすべて」を披露。原題の“All You Need Is Love”はビートルズやジョンを語るときの代名詞ともなりました。

 ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。ジョンが影響を与えたミュージシャンとして、同僚のポールとジョージ、ニール・ヤング、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クィーンらが挙げられ、影響を受けたミュージシャンは数知れません。

 ビートルズとしての初訪日以降も、ヨーコと頻繁に訪日した。アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作品への俳句の影響を示唆し、日本語で「しぶいアルバム」と表現している。 また、2人で歌舞伎隅田川を観劇し、感涙したという。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、ジョンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している。

♪ジョン・レノンが生まれた時の世界は?

♬ 指揮者の小林研一郎(4/5)、ジャズピアニストのハービー・ハンコック(4/12)、ビートルズのリンゴスター(7/7)が同じ年に生まれています。

♬ 誕生前年に第二次世界大戦が勃発しました。(S14~S20)

♪ スーザ 1854.11.6(嘉永6年)~1932.3.6(昭和7年) 

 ジョン・フィリップ・スーザはアメリカワシントンD.C.生まれ。大統領直属ワシントン海兵隊楽団のトロンボーン奏者でした。作曲家、指揮者。『ワシントン・ポスト』、『星条旗よ永遠なれ』など100曲を超えるマーチを作曲し、「マーチ王」と呼ばれていますが、オペレッタや組曲なども作曲しています。

 1892年、デヴィッド・ブレイクリーという興行師の誘いで楽団を辞任し、「スーザ吹奏楽団」を結成。9月26日にニュージャージー州プレインフィールドで第1回の公演を行い、そのまま全米各地への演奏旅行に出発していますがブレイクリーの根回しが少々雑だったのか、公演は必ずしもすべて成功とはいかなかったようです。「スーザ吹奏楽団」は全米各地のみならず、ハワイや南半球のオーストラリア、南アフリカなどへの演奏旅行に出かけていますが、1914年第一次世界大戦の勃発に伴い、吹奏楽団を解散し、スーザ自身は海軍大尉に任官しています。 終戦後、少佐で退役後吹奏楽団を再結成し、レコーディングや演奏旅行、そして1922年から始まったラジオへの出演など、大戦前以上に精力的に活動しています。

 1932年3月6日、ペンシルベニア州レディングでコンサートを開いた後、帰ってきたホテルで急死。吹奏楽団も解散となりました。

♬ スーザは音楽以外にも多彩な才能を見せており、3篇の小説と自伝を著しています。クレー射撃においても高い技術を有していたようです。 マーチングバンドなどでよく用いられるマーチング用チューバのスーザフォーンを考案するなど、19世紀のバンド音楽発展に貢献しています。

♬ 1896年、スーザの友人であり、楽団のプロデューサーでもあったブレイクリーが急死し、その報を聞いて帰る船の中で浮かんだメロディーを元に作曲されたのが『星条旗よ永遠なれ』です。

♬ 「スーザ吹奏楽団」は全米各地のみならず、ハワイや南半球のオーストラリア、南アフリカ、ヨーロッパなどへの演奏旅行に出かけ、各地でのコンサートはどこも大盛況で1曲演奏するごとにアンコールの声がかかっていたようです。

♪スーザが生まれた時の世界は?

♬ ロベルト・シューマンが入水自殺未遂(2/27)

♬ クリミア戦争開始(3/27):イギリスがロシアに宣戦布告

♬ 日米和親条約(3/31):鎖国体制は終焉を迎えた。日本開国。

♬ 安政東地震(11/4東海地震)、安政南海地震(11/5南海地震)が発生。

♪ スッペ  1819.4.18(文政2年)~1895.5.21(明治28年)

フランツ・フォン・スッペは、オーストリアの作曲家。オペレッタとその序曲で有名。「ウィンナ・オペレッタ(ドイツ語版)の父」と呼ばれることもある。指揮者や歌手としても活動。ズッペの表記も多くあります。

18世紀にダルマチア地方スプリトに移住したベルギー系貴族の家庭に生まれる。遠戚にガエターノ・ドニゼッティがいます。幼年期に音楽の手ほどきを受けて作曲を試み、10代のときクレモナでフルートと和声法を学んでいます。

♬ 日本では、大正時代に浅草オペラの台頭によってスッペのオペレッタが紹介され、とりわけ『ボッカチオ』のアリエッタ『恋はやさし野辺の花よ』が田谷力三の愛唱歌として普及された。『ベアトリーチェ』は『ベアトリ姐ちゃん』とタイトルを変え、榎本健一の歌でヒットした。

♬ スッペは30曲のオペレッタのほか、バレエ音楽など多数の舞台音楽を作曲。それらの大部分が忘却に追いやられている中で、『軽騎兵』や『詩人と農夫』の序曲が、映画やアニメーション、コマーシャルなどの音楽に転用され、ポップスのコンサートで演奏されている。これらはヨハン・シュトラウス2世などに比べ起伏を大きくとって豪快にオーケストラを鳴らす傾向があり、いわゆる「爆演」や「爆速」を楽しむのに適した曲が多い。そのせいかカラヤン、ショルティ、スイトナーといった重厚長大系のレパートリーを得意とする大指揮者が好んでスッペ序曲集をアルバム化している。

♪スッペが生まれた時の世界は?

♬ フランス19世紀の写実主義の画家クールベが生まれています。(6.10)

♬ 「オペレッタ天国と地獄」等の作曲家オッフェンバクが生まれています。(6.20)

♬ 誕生の前年「フランケンシュタイン」が発表。「きよしこの夜」初演(12.25)

♬ 誕生の翌年白衣の天使ナイチンゲールが生まれています。(5.12)

♪ ストラヴィンスキー 1882.6.17(明治15年)~1971.4.6(昭和46年) 

 イーゴリ・ストラヴィンスキーは20世紀前半から中頃にかけて活躍したロシアの大作曲家です。彼は強烈な個性と大胆な手法によって自分の作品を作り上げていきました。その中で最も斬新な印象を与えたものがバレー音楽『春の祭典』ではないでしょうか。

♬ 実は、この曲の初演は音楽史上最も有名な‘スキャンダル’な一つとして語り継がれています。最初の何小節かが演奏されただけで、聴衆から笑い声が起こり、やがてあちこちから口笛やヤジが広がってもう演奏を聴くどころの騒ぎではなかったそうです。その状態を解消しようとして劇場の照明を点滅させたり、指揮者が「どうか静かに最後まで聴いて下さい!」と叫んでも収拾がつかず、ホールはパニック状態となってしまいました。変拍子によって刻まれるすさまじいリズム、それまでの和声や旋律の概念を逸脱した不協和音の連続。この『春の祭典』は当時の一般聴衆の音楽の考え方に対する常識を遙かに超えてしまっていたのです。新聞にもこの作品に対する批判が次のように書かれており、そこからもその戸惑いや怒りの様子を伺い知ることが出来ます。

♬「この悪魔のような『春の祭典』を書いたのはだれか。一体、こんなものを書く権利があるとでもいうのか。無力なわれわれの耳に逆らって、がちゃがちゃ、ばんばん騒音を投げつける権利が。」

 しかし、彼の音楽も今では‘現代音楽の古典’、管弦楽曲の名曲として親しまれており、演奏会でも静かな雰囲気の中で聴くことが出来ます。 …私にはロック音楽のようにも聴こえますが…

♪ストラヴィンスキーの仲間

 ロシア・バレエ団の創始者のもとに、画家のマリー・ローランサン、デザイナーのココ・シャネル、画家のパブロ・ピカソなども参加しています。

♪ストラヴィンスキーの容姿、性格

 小柄で砂色の髪。馬面で大鼻。ギョロ眼で短足。頭が大きくアンバランスな体形。時代遅れのダンディズムだったようです。性格は自意識過剰で執念深かったようです。

♬ ストラヴィンスキーは自分の作品を勝手に解釈して演奏されることから演奏家が嫌いで自動演奏ピアノが好みでした。

♪ストラヴィンスキーの女性関係

♬  幼なじみで従姉のエカテリーナ・ノセンコ(カーチャ)と1906年に結婚し一男一女が生まれます。その後他の女性と不倫関係を持ったことが知られています。

 1916年に最初の浮気が始まり、1920年ころにココ・シャネルとも恋愛関係にあったようで、その後も浮名を流していたようですが1940年には最後のお相手ヴェラと再婚しています。

♪ストラヴィンスキーが生まれた時の世界は?

♬ 彼が生まれた年に「シャボン玉」などを作詞した野口雨情も生まれ、嘉納治五郎が柔道を創始しています。  

♪スメタナ 1824.3.2(文政7年)~1884.5.12(明治17年)

ベドルジハ・スメタナ(またはベドジフ・スメタナ ベトルジヒ・スメタナ)は、チェコの作曲家・指揮者・ピアニスト。ドイツ語名のフリードリヒ・スメタナでも知られる。

スメタナは、当時、オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア帝国)によって支配されていたチェコの独立国家への願望、チェコ民族主義と密接に関係する国民楽派を発展させた先駆者である。そのため祖国チェコにおいては、広くチェコ音楽の祖とみなされている。

国際的には、6つの交響詩から成る『わが祖国』と、オペラ『売られた花嫁』、弦楽四重奏曲『弦楽四重奏曲第1番 「わが生涯より」』で知られる。

『わが祖国』は、スメタナの祖国であるチェコの歴史、伝説、風景を描写した作品で、第2曲の「ヴルタヴァ」(モルダウ)が特に著名である。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』は喜劇として最もよく知られている。

彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを多用し、また、彼の書いた旋律は時として民謡を彷彿とさせる。彼は、同じ様にチェコの題材をその作品中に用いた作曲家として知られる ドヴォルザークに大きな影響を与えた。

スメタナは、元々ピアニストとして才能を発揮しており、6歳の時には既にピアノ公演も経験している。通常の学業を修めたのち、彼はプラハでヨゼフ・プロクシュの下で音楽を学んだ。

現在でも、チェコにおいては、スメタナはチェコ音楽の創始者として広く知られており、彼の同世代たちと後継者たちよりも上に位置付けられている。しかしながら、スメタナの作品はその内の少数が国際的に知られるのみで、チェコ国外においては、ドヴォルザークがより重要なチェコの作曲家であるとされることが多い。

♪スメタナが生まれた時の世界は?

♬ ブルックナーも同じ年。(9.4)9.4)

♬ ベートーヴェンの第九交響楽が初演

♬ シーボルトが鳴滝塾(蘭学)をつくる


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