(^^♪ 指揮者ご紹介

 世界や日本をリードしてきた偉大な指揮者達。

 あふれる才能に努力を重ね、音楽に生涯を捧げ、時には命をかけて人命も救助したりしてきた人生。でも、好きなものは止められないなど、貴方と同じような(?)人間的な一面も・・

 レオポルド・ストコフスキー 1882年(明治15年)~1977年(昭和52年)

 ストコフスキーを初めて知ったのはディズニー映画の『ファンタジア』でした。私は個性的な指揮姿を見て「エ!本当に指揮者?」って思ったのを覚えています。

 ストコフスキーは20世紀における個性的な一人で、「音の魔術師」の異名を持つ指揮者です。イギリスのロンドンに生まれ、主にアメリカで活動しています。

 教会のオルガニストとしてキャリアをスタートしますが、1909年5月12日にパリで指揮者としてデビュー、その6日後にはロンドンでもデビューしています。シンシナティ交響楽団の常任指揮者を経て、1912年にフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者に就任、以来1940年にいたるまで在任し、世界一流のアンサンブルに育てています。

 1925年に初めてオーケストラの電気録音を行い、1932年には当時の米ベル研究所により、これも世界初となるステレオ録音を行っています。

 『オーケストラの少女』や、1940年にはディズニーの画期的な音楽アニメーション『ファンタジア』など映画にも出演し、クラシック音楽の大衆への普及に努めています。『ファンタジア』により1941年の第14回アカデミー賞の特別賞をウォルト・ディズニーとともに授けられました(当時のアカデミー賞には、アニメに対する賞は設けられていませんでした)。

 1965年には日本フィルハーモニー交響楽団と読売日本交響楽団を指揮するために来日しています。最晩年の1973年にアメリカ交響楽団を秋山和慶に譲って故郷イギリスに帰り、生涯現役(ただし、公開の演奏会に出演したのは1975年が最後)を貫いて精力的に音楽活動を続けています。

 1976年、94歳の時にはCBSコロンビアと6年契約(契約満了時に100歳を迎える計算)を結びますが、1977年9月13日正午前にハンプシャー州ネザーウォロップの自宅で心臓発作により95歳で没。19日からラフマニノフの交響曲第2番をレコーディングする予定であり、数年後にはベートーヴェンの「田園」をデジタルレコーディングする予定もあり、ストコフスキー本人は100歳まで現役を続けるつもりで契約をしていた。

♬ よりよい音響を求めて舞台上におけるオーケストラの配置も研究し、それまで多く採用されていた第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右両翼に分けた配置を、現在のようにまとめて配置する形を生み出したのはストコフスキーであり、この配置は「ストコフスキー・シフト」と呼ばれて、以後の世界のオーケストラを席巻することになります。彼自身は、その後弦楽器群と管楽器群を左右に分ける配置を多く使うようになりました。

 ストコフスキーが世界初演、あるいはアメリカ初演したうちの代表的なものは以下の通りです。

  • 1916年 交響曲第8番「千人の交響曲」(マーラー)、「アルプス交響曲」(リヒャルト・シュトラウス) アメリカ初演(彼は前者の世界初演を聞いています。)
  • 1922年 「春の祭典」(ストラヴィンスキー)、「恋は魔術師」(ファリャ) アメリカ初演
  • 1932年 「グレの歌」(シェーンベルク)、左手のためのピアノ協奏曲(ラヴェル) アメリカ初演
  • 1934年 「パガニーニの主題による狂詩曲」(ラフマニノフ) 世界初演
  • 1937年 交響曲第3番(ラフマニノフ) 世界初演
  • 1940年 交響曲第6番(ショスタコーヴィチ) アメリカ初演、ヴァイオリン協奏曲(シェーンベルク) 世界初演
  • 1965年 交響曲第4番(アイヴズ) 世界初演

♪ ヴェルヘルム・フルトヴェングラー 1886.1.25(明治19年)~1954.11.30(昭和29年)

 ドイツの指揮者、作曲家。伴奏ピアニストとしての演奏も行っていました。カラヤンの前にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされています。

 今でも多くのファンがいます。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーなどのドイツ音楽の本流を得意とし、現在でも大変人気の高い指揮者です。特に1951年のドイツ・バイロイト音楽祭でフルトヴェングラーが指揮したベートーヴェンの「交響曲第9番」は泣く子も黙る名盤と言われています。

 音楽評論家の吉田秀和はフルトヴェングラーについて、「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」と評しています。

♬ 指揮棒を振り下ろすと雷が鳴り響くともいわれるようなカリスマ指揮者でしたが、音が出る前から指揮棒の先が細かく震え始め、アインザッツ(音の出だし)が非常にわかりにくいその独特の指揮法から、日本ではフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと評され、「フルヴェン」の愛称で親しまれています。

♪作曲家として

 ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスを尊敬していたフルトヴェングラーは、自身を作曲家であるとみていました。ブルックナーらに匹敵する長大な作品が多く、3つの交響曲、交響的協奏曲、ピアノ五重奏曲は演奏に1時間以上かかります。。 現状、作曲家としてのフルトヴェングラーやその作品群が評価されているとは言い難いが、演奏や録音の機会は増えつつあります。

♪ アーサー・フィードラー 1894.12.17(明治27年)~1979.7.10(昭和54年)

 1915年に、ボストン交響楽団にヴァイオリニストとして入団。フィードラーはそこで、ピアニスト・オルガニスト・打楽器奏者なども務めています。 1924年に交響楽団のメンバーによる室内楽団ボストン・シンフォニエッタを立ち上げ、無料の屋外コンサートを始めるようになります。

 1930年にはボストン・ポップス・オーケストラの第18代指揮者に就任し、半世紀にわたってその職を務めました。日本では読売日本交響楽団を指揮して演奏会を開いています。

 1979年7月10日、フィードラーはマサチューセッツ州ブルックリンで亡くなっています(85歳)。フィードラーの死後、ボストン市ではフィードラーに敬意を表しBoston Esplanade(今日まで続く無料コンサートの会場)の前にフィードラーの胸像を作りました。

♬ 「消防オタク」であり、自身で消防車両を所有していました。日本でも消防庁音楽隊との交流を持っていました。

♬ フィードラーの元でボストンポップスは多くのレコーディングを行い、レコード、カセットなど音楽ソフトの総売上はどこのオーケストラよりも多い5000万ドルを記録しています

 カール・ベーム 1894.8.28(明治27年)~1981.8.14(昭和56年)

 私は顔つきからドイツ音楽。特にベートーヴェンを得意としている指揮者だと勝手に思い込んでいましたが、ベームはモーツァルトの大家として知られています。

 ベームは父親の意向により、グラーツ大学で法律を学び、法学博士の学位を得ています。父親がグラーツ市立歌劇場の法律顧問をつとめていた関係で音楽界に仲間が多く、父親の友人であったフランツ・シャルクの紹介で、ブラームスの親友であったオイゼビウス・マンディチェフスキの個人教授で音楽を学んでいます。

 ベームはカラヤン、バーンスタインと同時期の世界的指揮者で、ウィーン・フィルとの共演が多く、日本でも大人気でした。19世紀生まれですので、モノラル録音の時代、ライヴ録音での白熱した演奏にも定評がありました。

♬ バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターはベームが第4指揮者に就任した際、多大なる影響を与え、特にモーツァルトの素晴らしさを教えています。そしてベームもモーツァルトの権威として知られるようになりました。

♬ ベームの演奏スタイルは、徹底した職人タイプだったようです。リハーサルでがっしりと仕込みあげた音楽をステージにもってくるタイプで、常に充実した響きを聴かせました。その意味では、「構造主義」のクレンペラーと同じスタイルです。ベームの言葉に「音楽は造形である」というものがありますが、柔軟性には富んでいるものの、感情を表に出すタイプではなく、派手さや誇張はあまりありません。よって音楽は常に崩れることなく、イン・テンポで、地に足がついた、どっしりとした重厚なものです。

♬ ベームは大学で法律を学んだのですが、楽譜に書いてあることから逸脱することを嫌ったその芸風は、法を遵守するという考えに基づいているとの説もあります。

♬ モーツァルトの音楽において、柔軟で、耽美的な個性は存分に活きてはいるのですが、如何せん、音楽にダイナミズムを望む私にとっては、ベームの音楽は「重たく」感じられてしまいます。

♪ 近衛 秀麿 このえ ひでまろ1898.11.18(明治31年)~1973.6.2(昭和48年)

 明治31年東京生まれ。元貴族院議員。異母兄に近衞文麿(元内閣総理大臣)がいます。近衞家は五摂家筆頭の家柄で、また皇室内で雅楽を統括する家柄でもありました。音楽は文麿の影響で興味を持ちました。

初めてベルリン・フィルを指揮した日本人で、日本のオーケストラにとってパイオニア的存在であり、「おやかた」という愛称で親しまれました。

 1915年からは、牛山充の紹介で、ドイツでの作曲留学から帰国したばかりの山田耕筰に作曲を学びます。

 1923年、秀麿はヨーロッパに渡り、ベルリンで指揮をエーリヒ・クライバーらに、作曲をマックス・フォン・シリングス(フルトヴェングラーの師)ゲオルク・シューマンに学び、パリで作曲をダンディらに師事しています。

 1926年(大正15年)新交響楽団創設し秀麿が常任指揮者となり、放送が開始されたばかりのJOAKと契約しています。(1951年{昭和26年}NHK交響楽団に改組)。

 作曲は少ないのですが作品の改訂や編曲に業績を残し、雅楽を近代的管弦楽に編曲した「越天楽」は広く演奏されました。

 日本とアメリカへ幾度かの往復の後ヨーロッパに移動し、1938年に一時帰国し改めて親善大使に任ぜられ、再びアメリカ・ヨーロッパに向かいました。NBC交響楽団の指揮者陣に加わりましたが、アメリカの対日感情悪化で話が流れ、即座にヨーロッパに移動。ヨーロッパでは有名無名問わず各国でおびただしい数のオーケストラを指揮しています。

♬ オーケストラの運営は、自腹でインフラ整備をしたにもかかわらず困難と失敗の連続でしたが、亡くなる直前まで指揮活動や後進の指導にあたり、晩年の不遇な事項を別にすれば、「おやかた」の愛称にふさわしい活動を繰り広げた。

♬ 秀麿の没後に行なわれた追悼演奏会では、前年に分裂した「日本フィル(日本フィルハーモニー交響楽団)」と「新日本フィル(新日本フィルハーモニー交響楽団)」双方の楽員が、立場を超えて共に演奏した最初の機会であり、これも秀麿の人徳あっての出来事として記憶されています。

第二次世界大戦勃発後も親交のあった人を介し、ユダヤ人をかくまい、亡命させたためドイツでの活動が1943年以降制限されましたが、華やかな演奏活動を繰り広げています。

二度結婚しています。愛人も多く(愛人には子や孫も)晩年、朝比奈隆に「もうアチラ(女性遊び)のほうはおやめになっては」と切り出され、秀麿は「でも、相手、ヨッ、喜んでおりますよ」と言い、朝比奈を唖然とさせています。何股をかけようとも、秀麿は女性たちに惜しむことなく愛情を注ぎ、また自分の方から身を引くので相手は文句がなかなか言えなかったと言われています。

♪ 齋藤 秀雄 さいとう ひでお 1902.5.23(明治35年)~1974.9.18(昭和49年)

 明治35年東京生まれ。チェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活躍した音楽家。桐朋学園大学学長。

 1923年上智大学中退後、近衛秀麿に従いドイツに留学、1927年新交響楽団(のちのN響)の首席チェロ奏者に。

 1941年新響を退団。指揮に転じ1942年松竹交響楽団、1943年日本放送管弦楽団、1945年東京フィルハーモニー交響楽団などの指揮者を歴任。

 1948年井口基成らと子供のための音楽教室を設立、この教室が1952年桐朋学園高等音楽科、1955年短大、1961年大学と発展し1972年まで教授、学長として教育に打ち込んでいます。門下に小沢征爾、堤剛、岩崎洸、前橋汀子、藤原真理ら多くの逸材を育てています。

1973年ロン=ティボー国際コンクールの審査員として渡仏。同年文化功労賞受賞しています。

 没後10年を記念したメモリアルコンサートをきっかけに、弟子達を中心にした“サイトウキネンオーケストラ”が組織され、1992年(平成4年)からは「サイトウキネンフェスティバル松本」(現在はセイジオザワ松本フェスティバル)が毎年開催されています。

♬ 1956年に名著として名高い「指揮法教程」はに音楽之友社から出版後瞬く間に売れ、レナード・バーンスタインから賞賛されるなど、斎藤の遺した最も大きな仕事の一つである。

門下生だった山本直純によると、斎藤は喫煙中毒者であり、ニコチンが切れると苛立って教え子に当たり散らし、譜面台を蹴り倒して楽譜を散乱させることもあったといいます。

門下生の小澤征爾は高校時代、斎藤から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともありました。

斎藤はまた、教え子に常々「10回やって10回全部できなかったら、音楽じゃない。もし演奏会のときできなかったら、どうするんだっ」と説いていましたが、斎藤みずからは極端な上がり症であり、本番の演奏会で指揮する時は練習の時と全く異なり「先入(裏拍を指示する)」という指揮法をやたらに多用していました。意識的にやっていたのかと思った小澤征爾から「先生、今日は『先入』ばかりでしたね」と言われると、斎藤は逆上して「そんなこと言うな! 俺は先入なんかやるつもりはないが、そうなるんだ!」と怒鳴ったとか。

宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュの中に出てくる管弦楽団の厳しい楽長(指揮者)のモデルは、ちょうど留学から帰ったばかりで厳しい指導をしていた新響での斉藤の姿から考えたのではないか、という説があります。新響の練習を賢治が上京時に見学した時期と一致しているためです。

♪ ヘルベルト・フォン・カラヤン 1908.4.5(明治41年)~1989.7.16(昭和64年)

 指揮をして絵になる男。多くの若者が真似したであろう指揮者カラヤン。

 演奏を「音」だけではなく「映像」としても表現し続けていたカラヤンはオーストリア生まれの指揮者です。

 出生名はHeribert Ritter von Karajan(ヘリベルト騎士フォン・カラヤン、騎士ヘリベルト・フォン・カラヤン)。しかし1919年、オーストリア・ハンガリー帝国の終結に伴う貴族制度の廃止により「騎士」「フォン」が外され、以降のオーストリアでの公式名(官公庁の証明書など)はヘリベルト・カラヤンになります。芸術活動を行う上でカラヤン自身が出生名(フォン入り)にこだわり、芸名(芸術家名)として「ヘルベルト・フォン・カラヤン」(Herbert von Karajan)を名乗ることを官憲に認めさせた経緯があります。

  ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビューしています。

  1946年、ウィーン・フィルとの第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員であったことを理由に、ソ連の占領軍によって公開演奏停止処分を受けますが、翌1947年には再び処分保留となります。

  1954年11月、ドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが急逝したことで、翌1955年にフルトヴェングラーとベルリンフィルとのアメリカ演奏旅行の代役を果たし成功をおさめます。この旅行中にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任します。

 1955年より1989年までの34年間ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持ちました。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていました。また、その独自の音楽性と自己演出は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなりました。

♬ カラヤンは指揮者の職業病とも言える脊椎の持病に悩まされ続け、生涯に12回もの大手術を受けています。晩年には、歩行も厳しいほど体のコントロールを失うことにもなり、その頃のカラヤンは指揮台の柵につけられたサドル状の特製の椅子に座って指揮し、長年目をつぶって指揮していたオーケストラのみの曲でも1983年ごろからは目を開いて指揮することが多くなりました。

カラヤンはオーディオ機器にも強い関心を持っていました。コンパクトディスク(CD)が実用化されようとしていたとき、メーカーから相談を受けいろいろとアドバイスをしたようです。そしてCDの収録時間を決めるときに、当初メーカーが考えていた時間(60分)ではなく、自らが演奏したヴェートーベンの第九交響曲がおさまる時間(74分)に要望したという噂もあります。

指揮者は演奏家とコンタクトをとるため目で合図をするのが一般的ですが、カラヤンの指揮は目を閉じ指揮棒の動きが少ない映像が有名です。これらは映像美を意識したものだということです。また、オーケストラを撮影するカメラアングルにも多くの注文をしたことでも有名です。

若手音楽家の育成にも積極的で、日本人初のベルリン・フィルのコンサートマスターとして安永徹を選んだり、指揮者の小澤征爾も育てています。

カラヤンは自家用ジェット機を保有し、自ら操縦し別荘などへ行っていました。晩年になり、80歳で期限が切れる飛行機免許の代替としてヘリコプターの免許を取得しています。無類の車好きなことでも有名でスピード狂としても知られ、様々なスポーツカーや高性能車、高級車を所有し乗り継いでいたようです。

カラヤンのスピード狂はスキーにも及び、直滑降の名手として山小屋の主人から「アルプスで1番早いダンナ」と呼ばれていました。

 日本との関係も深く、東京のサントリーホールの建設にも設計の段階から携わっています(このホールは、カラヤンとベルリン・フィルの本拠地ホールがモデル)。その業績を称えて、サントリーホールの前(アーク森ビル)の広場が「カラヤン広場」と命名され、今日もその名を刻んでいます。

 朝比奈 隆 あさひな たかし  1908.7.9(明治41年)~2001.12.29(平成13年) 

 カラヤンと同じ歳の朝比奈は大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の設立者で音楽総監督、指揮者。

 朝比奈の出生には謎がありますが、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷砂土原町の小島家に生まれ、生後まもなく鉄道院技師朝比奈林之助の養子となり朝比奈姓になります。

 1931年に京都帝国大学(現京都大学)法学部を卒業。2年間阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に勤務。電車の運転や車掌、百貨店業務、盗電の摘発などを行う傍ら、チェリストの伊達三郎の誘いで大阪弦楽四重奏団のヴァイオリン奏者として大阪中央放送局(JOBK)に出演していました。

♬ 1934年(昭和9年)より大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)に非常勤講師として勤務し、一般教養課程でドイツ語・英語・音楽史・心理学を教えていましたが、1937年(昭和12年)より教授になっています。

1947年(昭和22年)4月、大阪放送管弦楽団出身者などを集め、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の母体となる関西交響楽団を結成し、同時に参加団体として関西オペラ協会も設立しています。

♬ 1960年(昭和35年)に関西交響楽団を大阪フィルハーモニー交響楽団に改称(定期演奏会の回数は、改称時に数え直している)。同楽団の常任指揮者を経て音楽総監督となり、亡くなるまでその地位にありました。1つのオーケストラのトップ指揮者を54年間務めたことになります。

♬ 1978年(昭和53年)にディスク・ジァン・ジァンからブルックナーの交響曲全集LPを発売した。この全集は大評判となり、朝比奈は一躍「巨匠」「日本のブルックナー解釈の第一人者」として注目を集めるようになります。

ブルックナーの交響曲で問題になる楽譜の「版」。朝比奈は基本的にハース版を使用。1975年(昭和50年)の大阪フィルの欧州公演中、10月12日リンツの聖フローリアン教会で交響曲第7番を指揮した際、会場にノヴァーク版の校訂者レオポルト・ノヴァークが来ており、終演後朝比奈を訪れた。ノヴァークは演奏を称賛し、ノヴァーク版で演奏しなかったことを詫びた朝比奈に、名演の前に版は大した問題ではない旨答えたという話が残っています。

若い頃はがさつさから「がさ」というニックネームでした。大阪フィルの団員には「オッサン」あるいは「親方」と呼ばれていました。

演奏中に指揮棒を落としてしまうことが多く、そのため楽譜台には指揮棒が多めに置かれていました。さらに大阪フィルの演奏会ではヴィオラ最前列がしばしば落ちた指揮棒を拾っていたそうです。

私も何度か演奏を聴く機会がありましたが、指揮が分かりにくかったのを記憶しています。後に大フィル合唱団のメンバーに話を聞いても同じことを言っていました。(オケメンバーも?! 日本版フルトヴェングラー?)

♬ 指揮者の朝比奈千足は長男。

♬ 左利きですが指揮棒は右、包丁は左でした。

 ゲオルク・ショルティ  1912.10.21(大正元年)~1997.9.5(平成9年)

 ハンガリー出身で、ドイツ、のちイギリスの国籍で活躍した指揮者、ピアニスト。ゲオルグ・ショルティとも書かれる

 『グラミー賞』を31回受賞(74回ノミネート)しており、受賞数、ノミネート数ともに世界一です。

 6歳でピアノを習い始め、その後1924年にリスト音楽院でヴェイネル、バルトーク、コダーイ、ドホナーニらに指導を受け、ピアノ、作曲、指揮なども学びます。

 13歳の時、コンサートで聞いたエーリヒ・クライバー指揮のベートーヴェン・交響曲第5番の演奏に感動して指揮者を目指すことになります。

 1936年ザルツブルクを訪れた時、ザルツブルク音楽祭のリハーサルのためのピアニストに欠員が出たためショルティに声がかかり、これがトスカニーニの目にとまり、同年と翌年のザルツブルク音楽祭のトスカニーニの助手を務めます。

♬ 1942年ジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝し(審査員にはヴィルヘルム・バックハウスやフランク・マルタンがいた)、その後ピアニストとしてデビュー。それまで仕事にありつけずにいたショルティだが、この成功によって音楽家として名声を博していくことになります。

♬ シカゴ交響楽団と録音したバルトークの管弦楽のための協奏曲やマーラーの交響曲などに表れているように、とにかく楽器を良く鳴らし、オーケストラのダイナミックレンジと機動力を最大限に利用したような指揮は、ショルティの指揮スタイルのひとつです。リズムの正確さ、鋭敏さも大きな特徴です(モーツァルトのオペラにおいて顕著)。シカゴ交響楽団でショルティが作った響きは、ウィーン・フィルのしっとりした響きよりはややドライな弦楽器、躍動的かつ長い息で吹き切る木管・金管楽器による「明晰さとバランスを重視」(本人談)。

♬ トップオーケストラほど(ヨーロッパで特に顕著に)、指揮者が指揮棒を振るのと実際の演奏の音の出る間に長いタイムラグが生ずると言われています。ショルティはこれを嫌い、なるべく指揮棒を振り下ろした瞬間に音を出すよう依頼した。そのため、伝統を重んじるウィーン・フィルとはしばしば衝突を起こしたとか。

♬ ショルティは、1938年3月11日(同日、ナチス・ドイツによるオーストリア併合)、ブダペスト歌劇場の「フィガロの結婚」で指揮者としてのデビューを飾っていますが、ユダヤ系だったこともあって、再び指揮台に立つ機会はありませんでした。

♬ ショルティによって、シカゴ交響楽団は今日の世界的評価を獲得しています。

♬ 「シカゴはギャングの街からオーケストラの街になった」との評もありました。シカゴの野球解説者は、正確であることを「ショルティのよう」と喩え、シカゴの電話帳の表紙を飾ったこともあり、市民から愛された指揮者でありました。

♪ レナード・バーンスタイン 1918.8.25(大正7年)~1990.10.14(平成2年)

 私はバーンスタインといえばジョージ・チャキリスのカッコいいダンスと斬新なリズム、甘いメロディで衝撃を受けた映画「ウエストサイド・ストーリー」に夢中になった思い出があります。

 アメリカ人の作曲家、指揮者でありピアニストとしても知られています。

 アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者になり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家でした。愛称はレニー。

 ウクライナ系ユダヤ移民の長男として生まれ、出生名はルイス。16歳の時に独語で「琥珀」という意味のレナードに改名しています。(琥珀のレニー)

ヘビースモーカーとしても有名で、14歳の時に煙草を覚えたといいます。煙草にまつわるエピソードも多く、1986年(68歳の時)には米国の新聞紙面で「私は20歳代の半ばに肺気腫の兆候があると診断された。煙草をやめなければ35歳までに死ぬと言われた」と語っています。著名なミュンヘンの音楽評論家であるヨアヒム・カイザーの談話によれば、彼は1日に煙草を100本(5箱)とウイスキー1本を飲む事を日課としていたといいます。また、晩年にアシスタントを務めた佐渡裕の著書によれば、しばしば「今日で禁煙するが、最後に1本だけ」と煙草に火をつけ、結局やめたことはなかったようです。

バーンスタインは師匠のミトロプーロスと同じく、同性愛傾向も有していたようで、妻が「もう男といちゃつくのはやめて!」と訴えると、バーンスタイン自身は平然と「なに言っているんだい? 芸術家ってのはホミンテルン(ホモ{同性愛者}+コミンテルン{共産主義インターナショナル})なんだぜ」と答えたといわれています。

バーンスタインに限らず、当時のアメリカの多くの芸術家は政治的傾向として共産主義に傾倒していました。バーンスタインは熱心な民主党支持者であり、ジョン・F・ケネディ大統領を理想の政治家として尊敬していました。

♬ バーンスタインは反戦、核の脅威、反人種差別等に音楽活動を通して関わっていたためFBIが社会的な要警戒人物としてみていました。

 ヴォルフガング・サヴァリッシュ 1923.8.26(大正12年)~2013.2.22(平成25年)

 ドイツ、ミュンヘン生まれの指揮者・ピアニスト。

 10歳の頃、初めて見たオペラ『ヘンゼルとグレーテル』に感動し指揮者を志します。

 1953年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮。また1954年、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの葬儀でベルリン・フィルの追悼演奏を指揮。1957年にはロンドン・デビュー(エリーザベト・シュヴァルツコップの伴奏者、フィルハーモニア管弦楽団の指揮)そして、バイロイト音楽祭に開幕演目の『トリスタンとイゾルデ』で初出演を果たします。33歳でのバイロイトへの出演は当時の最年少記録でした。

 カラヤンはサヴァリッシュをウィーン国立歌劇場に、一方でルドルフ・ビングも当時支配人であったメトロポリタン歌劇場に引っ張りこもうとしました。しかしサヴァリッシュは、自分はまだ経験不足だということを理由にいずれも断っています。結果的にこれが、プライドの高い2人の逆鱗に触れてしまい、カラヤンからは一度もベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれることがなく、また生涯一度もメトロポリタン歌劇場で指揮することなく終わっています。

 1964年11月、NHK交響楽団の招聘で初来日以来、ほぼ毎年のように来日しています。

 NHK交響楽団において、1967年に名誉指揮者、1994年に桂冠名誉指揮者となっています。N響とは定期公演のほか、海外公演や二期会と組んだオペラ上演などでも大いに活躍。また、N響の節目々々の演奏会には必ず登場し、1970年のベートーヴェン生誕200年チクルスや、1973年のNHKホールこけら落し公演、1986年10月1日の第1000回定期公演と2001年の創立75周年記念公演(ともにメンデルスゾーンのオラトリオ『エリヤ』)などに出演しています。

♪ ジャン=フランソワ・パイヤール1928年(昭和3年)2013年(平成25年) 

 フランスの指揮者。 ソルボンヌ大学で数学を専攻した後、パリ音楽院でノルベール・デュフルクに音楽学を、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽大学にてイーゴリ・マルケヴィチに指揮を師事するなどの教育を受けています。

 1953年にジャン=マリー・ルクレール器楽アンサンブルを創立。これが母体となって1959年にパイヤール室内管弦楽団が結成された。この楽団はバロック音楽や古典派音楽を専門としていましたが、チャイコフスキーやドヴォルザークの弦楽セレナーデのようなロマン派音楽を稀に録音することもありました。パイヤールはエラート・レーベルに数々のバロック音楽を録音し、また欧米の各地で演奏旅行を行なっています。

♬ パイヤール室内管弦楽団と共演して音源を残したソリストに、モーリス・アンドレ、ジャン=ピエール・ランパル、ジェラール・ジャリ、リリー・ラスキーヌ、ピエール・ピエルロ、ジャック・ランスロらがいます。 2001年に来日し、水戸室内管弦楽団を指揮してドビュッシーやファリャ、オネゲルの作品を指揮しています

 ニコラウス・アーノンクール 1929年(昭和4年)2016年(平成28年) 

 オーストリアの指揮者、チェロ奏者。52~69年までウィーン交響楽団のチェロ奏者を務めています。

♬ ウィーン交響楽団のチェリストでしたが指揮者になるきっかけとなったのは、モーツァルトの有名な交響曲第40番ト短調でした。「死」のイメージであるト短調で書かれた曲を、ただ流麗に演奏する指揮者や心地よさそうに聴く客席に耐えかねたからでした。

♬ 早くから古楽器を収集し、それらの醸し出す響きや、演奏に際しての技術上の制約が、同時代の音楽作品の本質とどのように結びついているのかを探求しました。一般にどの楽器にも、より大きな音量を求め、すべての音をより均質に発音できるような機能へと向かう発達の歴史があります。その過程で、木管楽器にはキーが増え、弦楽器は張力を高めるべく改造され、金管楽器はバルブを持つようになりました。通常のオーケストラは、あらゆる音楽の民族性と時代様式に広汎に対応するために、現代の楽器によって構成されますが、アーノンクールは作品の生み出された当時の構造のままの古楽器と“ピリオド”奏法による演奏の先駆者として、1953年に手兵のウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを立ち上げました。

♬ 70年代にオペラの指揮を始め80年代からはモダン・オーケストラも指揮するようになり、近年ではベルリン・フィル、ウィーン・フィル(2001年および2003年の同団ニューイヤーコンサートを指揮)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団やヨーロッパ室内管弦楽団への客演も多く、レパートリーも古楽系のものにとどまらず、バルトークまで振るようになっています。85年にシュティリアルテ音楽祭を創設。京都賞、ライプツィヒ・バッハ・メダルなど数々受賞しています。

♪ フランス・ブリュッヘン 1934年(昭和9年)~2014年(平成26年) 

 オランダのアムステルダム生まれ。リコーダー、フルート、フラウト・トラヴェルソ奏者、および指揮者。

♬ 1950年代よりリコーダー奏者として活動を開始し、リコーダーによる演奏の可能性を格段に広めた古楽界の草分け的な存在。

♬ ブリュッヘンは当初リコーダー奏者としてキャリアをスタートさせ、モダン・リコーダーからしだいに古楽器へと傾倒していきます。同時にフラウト・トラヴェルソ奏者としても一流の腕前を持っており(本人は苦手と言っていました)、ブリュッヘンの所持していた楽器は指揮者に転身してからほとんど手放しましたが、その多くは日本人のフラウト・トラヴェルソ奏者有田正広の手に移っています。

 ブリュッヘンは1981年にオリジナル楽器のオーケストラである18世紀オーケストラ (Orchestra of the 18th Century) を結成して指揮者に転じています。この18世紀オーケストラを指揮しハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの古典派の作品を中心に、シューベルトやメンデルスゾーンなどの前期ロマン派作品なども含めて多数の録音を残しています。

 小澤 征爾 おざわ せいじ 1935年(昭和10年)~    

 昭和10年満洲国奉天市(中国瀋陽市)生まれ。

 1959年2月1日から、スクーター、ギターとともに貨物船で単身渡仏。同年パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。その後カラヤン指揮者コンクール第1位となり、カラヤンに師事。1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。指揮者のレナード・バーンスタインに師事

 日本が生んだ、はじめて世界で通用した指揮者。日本人がウィーンのオペラ座の音楽監督をする時代が来るなんて誰が想像したでしょうか。世界で活躍する指揮者は多いが、いまだ誰も追いつけない位置にいる。栄典・表彰歴として文化勲章受章など。主な称号はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の名誉団員、ボストン交響楽団桂冠音楽監督、セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督、新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者など。

1962年、井上靖の仲人により、三井不動産社長江戸英雄の娘でピアニストの江戸京子と結婚。1968年、白系ロシア人貴族の血を四分の一引くファッションモデル兼デザイナーで一時的に女優としても活動していた入江美樹(小澤・ベラ・イリーン)と再婚しています。

1962年NHK交響楽団との間にトラブルが起こり契約解除されましたが、翌年1月17日に黛敏郎らの斡旋により一応の和解が成立しています。しかし「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」ほど(先のドキュメンタリーでの発言)のショックを受けた小澤が次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことでした。小澤は後年、N響とのトラブルが刺激になってよく勉強したとも述懐しています。

10歳の時に兄からアコーディオンとピアノの手ほどきを受けました。才能を感じた一家は本格的にピアノを習わせましたが、中学生の時にラグビーの試合で大怪我をしたためピアノの道を諦めています。

高校生の時、齋藤秀雄の指揮教室に通っていたことから桐朋女子高等学校音楽科に第1期生として入学。同門には秋山和慶、山本直純などがいます。

学生時分に山本直純は「俺は日本でクラシックを普及させるからお前は世界で一流の指揮者になれ」と言って小澤征爾を応援していましたが、山本直純もテレビ番組などでクラシック音楽をお茶の間に広めました。

 ウラディーミル・アシュケナージ 1937年(昭和12年)~    

 ソヴィエト連邦出身のピアニスト、指揮者

 20世紀後半を代表するピアニストの一人です。

 1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し、2位に輝いた。この時にアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことはよく知られています。

 1970年頃からは指揮活動にも取り組み始め、1974年には指揮者として初の録音を行っています。指揮活動の初期に共演したオーケストラにはロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団などがあります。

 1987年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、1994年までその座にありました。1989年11月にはロイヤル・フィルを引き連れて改革の進むソヴィエト連邦に26年振りの帰郷を果たし、モスクワ音楽院大ホールでコンサートを行っています。そのほかこれまでにベルリン・ドイツ交響楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、NHK交響楽団の音楽監督、首席指揮者のポストを歴任しています

♬ 2010年、洗足学園音楽大学の名誉客員教授に就任。後進の指導にあたっています。

♪ 小林 研一郎 こばやし けんいちろう 1940年(昭和15年)~    

 福島県いわき市小名浜生まれ。高校の体育教諭の父と小学校教諭の母の長男として生まれています。

 愛称は「(炎の)コバケン」、通称「炎のマエストロ」として国内では最も人気の高い指揮者の一人です。

 1974年第1回ブダペスト国際指揮者コンクールに年齢制限ギリギリで参加。第1位、特別賞を受賞。ヨーロッパのオーケストラを多数指揮し、プラハの春、アテネ、ルツェルン音楽祭などの音楽祭に出演、指揮をしています。2002年には、「プラハの春」音楽祭のオープニングコンサートにて、東洋人として初めてチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して登場。スメタナの交響詩『わが祖国』を演奏し全世界に同時中継されました。

朝比奈隆、小澤征爾に次ぐ邦人レコーディングアーティストとしても有名で、オーケストラは主に、ハンガリー国立交響楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、アーネムフィルハーモニー管弦楽団などがあります。

グリップの長い、独特の自作指揮棒を使用。近現代の作品も得意としています。弦楽器の歌わせ方や管楽器の強弱指示は、「コバケン節」と言われています。

指揮をする際、身振りが激しいだけでなく、時にうなり声が大きいことでも知られ、録音でもそれとわかる場合があります。

以前、トーク番組で「あなたはどうして暗譜で指揮をするの?」と問われたときに、『スコアをめくるということは、一瞬でもそのことに意識を取られ、そのために楽員とのアイコンタクトが取れなくなってしまうので、音楽の流れを阻害してしまうような不要な動作は避けたい』というようなことを言っていたとか。

音楽だけではなくスポーツや学業も優秀だったといい、本人談によると、三段跳びの県の記録を持っていたほか、100メートル走で11秒台(スパイク無し)の記録も持っていたと言っています。

♪ 秋山 和慶 あきやま かずよし 1941年(昭和16年)~    

 東京交響楽団桂冠指揮者、バンクーバー交響楽団桂冠指揮者、広島交響楽団終身名誉指揮者。2012年6月より日本指揮者協会第5代会長を務めています。

 指揮法を齋藤秀雄、ピアノを井口秋子、ホルンを千葉馨、打楽器を岩城宏之に師事。「斎藤メソッド」(指揮法)の継承者であり、小澤征爾、山本直純らと共に斎藤秀雄の門下生。斎藤の下で厳しい指導を受ける。

 1964年に東京交響楽団を指揮してデビュー。大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者、カナダのトロント交響楽団副指揮者を経てバンクーバー交響楽団音楽監督(現在桂冠指揮者)に就任。

♬ 吹奏楽にも造詣が深く、Osaka Shion Wind Orchestra芸術顧問を務めています。

♬ 1984年には、恩師・齋藤秀雄を偲んで小澤征爾と共に「齋藤秀雄メモリアルコンサート」を開催。このコンサートがサイトウ・キネン・オーケストラの発足につながっています。「題名のない音楽会」などの音楽番組への出演・演奏多数。

♬ 大阪市音楽団を指揮して、2007、2008、2011、2012、2016年度の全日本吹奏楽コンクール課題曲の参考演奏の録音を行っています。大阪市音楽団から名称変更をした関係で、2016年度の録音分はOsaka Shion Wind Orchestra名義となっています。

♪ リッカルド・ムーティ 1941年(昭和16年)~     

 イタリア人の指揮者。シカゴ交響楽団音楽監督、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員。現代を代表する巨匠として知られています。

 1980年から1992年までフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任し、しばしば同楽団を率いて世界的な演奏旅行を行っています。フィラデルフィア管と制作したレスピーギ作品やロシア作品(ストラヴィンスキー、チャイコフスキー、スクリャービン)、ブラームスの交響曲の録音は、現在でも評価が高いです。

 2010年5月、シカゴ交響楽団音楽監督に就任。

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも定期的に客演。1971年以来ザルツブルク音楽祭にも定期的に参加し、オペラや演奏会を指揮していますが、とりわけ同地ではモーツァルトの歌劇の指揮で有名です。スカラ座のほかにも、フィラデルフィアやロンドン、ミュンヘン、ウィーン、ラヴェンナ音楽祭などでオペラ公演を指揮してきています。

♬ 交友は大物が並んでいます。小澤征爾、ダニエル・バレンボイム、ズービン・メータ、マウリツィオ・ポリーニ、バルバラ・フリットリ、レナート・ブルゾン等。またカルロス・クライバーの数少ない親友でもありました。

♬ 専属のカメラマンが付く稀な指揮者であり、写真集も出版されている。そのほか公式サイトではその写真を公開しています。

♬ 2011年2月3日、シカゴ交響楽団とのリハーサル中に気を失って指揮台からステージに転落。顔面の骨と顎骨を骨折(治療後に復帰)。その際、心臓にペースメーカーを埋めていることが明らかになりました。

♬ インフルエンザに掛かりやすく、12~2月にキャンセルが増える事が多いようです。

♬ ジョークの多い指揮者で、リハーサルや記者会見でもしばしば用いています。心臓の調子を記者から質問されたとき、「問題は心臓ではなく頭だ」と自虐的に切り返しています。

♬ 車の運転にはかなり自信があり、相当のスピードを出すことを認めています。車種はイタリア車ではなくメルセデス・ベンツを好んでいるとのこと。

♪ サイモン・ラトル 1955年(昭和30年)~     

 イギリスの指揮者。2002年9月から2018年6月までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を務めています。2017年9月からロンドン交響楽団の音楽監督。

 幼い頃からピアノと打楽器を学び、20代前半から既にヨーロッパ各地のオーケストラに客演し、様々なオーケストラからの主要ポストの申し出を受けたが、1980年に自国のバーミンガム市交響楽団の首席指揮者に就任。

 2002年、クラウディオ・アバドの後任として、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督に就任

♬ ラトルはベルリン・フィルの若年層の聴衆および音楽人開拓のための活動である「Zukunft@BPhil」に取り組み、その一環として映画『ベルリン・フィルと子どもたち』を制作しています。こうした青少年育成活動は高く評価され、2005年にドイツの教育分野で権威ある賞であるシラー賞を受賞しています。

♬ 2012年7月にはロンドン五輪の開会式でロンドン交響楽団を指揮し、映画『炎のランナー』のテーマ曲を演奏、ローワン・アトキンソン演じるMr.ビーンと共演しています。

 佐渡 裕 さど ゆたか 1961年(昭和36年)~     

 京都市右京区に生まれ。兵庫県立芸術文化センター芸術監督、シエナ・ウインド・オーケストラ及びウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団首席指揮者。

 タングルウッド音楽祭オーディションへの参加許可を得て同音楽祭で小澤征爾、レナード・バーンスタインに師事しています。

 二人のスポンサーの協力を得てウィーンに渡り、バーンスタインのアシスタントを務め、1989年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し指揮者としてプロデビュー。その後、数多くのオーケストラ、吹奏楽団を指揮。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に客演指揮者として招かれ、日本時間の2011年5月21日から5月23日の3日間開催された定期公演で指揮を取っています。(日本人としては恩師の小澤征爾以来)

 2015年9月よりウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の首席指揮者(音楽監督)に就任しています。

♬ 私もそうですが指揮をする佐渡裕自身がファンだというスーパーキッズオーケストラは小学生から高校生まで未来を担う子どもたちからのメンバーで編成されています。彼らの演奏は最高の音楽の贈り物だと思います。 あの純粋で輝かしい目、透き通った音、音楽を楽しむ心と演奏技術 ♪ 感動で身も心も洗われます。皆さんも一度は聴いていただきたい、いや体感していただきたい。

 オーケストラの在籍者や卒業生は摂津音楽祭など多くのコンクールで優秀な成績を収めています。将来は日本のトップ、世界の一流演奏家に育っていくのではないでしょうか。プロのオーケストラでは決して聴けない音楽がここにあります。(将来は医者や法律家になりたいメンバーもいますが……)

バーンスタインの流れを汲む「ヤング・ピープルズ・コンサート」の開催や、毎年12月に開催される「サントリー1万人の第九」の総監督・指揮、さらに2008年からテレビ朝日の『題名のない音楽会』第5代目司会者を7年半務めるなど、多方面で活躍しています。神戸市の自宅は安藤忠雄が設計しています。

♪ 音楽家になりたければ

音楽家になりたければ次の項目を実行しろと教わった方がいらっしゃいます。

  • 美味しいもの食べろ(口)。
  • 絵画(美術品)鑑賞をしろ(目)
  • 良い音楽を聴け(耳)。
  • 多くの人と交流しろ。                                                  異性を良く知れ。(深く付き合え)(ジョーク?……)

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