♪ マーラー 1860.7.7(安政7年)~1911.5.18(明治44年)
グスタフ・マーラーは現在のチェコでユダヤ人の両親のもとに生まれ、ウィーンで活躍した作曲家、そして20世紀初頭最高の指揮者です。
♬ 3歳の時にアコーディオンのおもちゃを与えられ鍵盤を知ったマーラーはすでに「軍隊行進曲」を弾いていたと云います。そして、6歳の時に伯母の家に泊まりに行ったときに屋根裏にあった古びたピアノを見つけ日が暮れるまで夢中で弾いていました。
♬ 父親は酒癖が悪く家族に暴力的で、マーラーとは折り合いが悪かったことから、音楽寮に預けられることになります。
♬ 17歳でウィーン大学においてアントン・ブルックナー(1824年~1896年)の講義を受け、交流が始まっています。18歳の時ウィーン音楽院卒業コンクールで優勝しますが、生活のために指揮者の仕事を始めます。その後指揮者として名声を博しますが指揮での仕事が増え、それにより作曲活動ができないと嘆いています。
♬ 28歳で交響曲第1番「巨人」の第1稿が完成。38歳でウィーン・フィルハーモニーの指揮者に就任(41歳で聴衆や評論家との折り合いが悪く辞任)。47歳で渡米し交響曲第8番「千人の交響曲」を完成。50歳でヨーロッパに戻りますが51歳の誕生日の6週間前に敗血症のため亡くなっています。
♬ 音楽寮ではいじめにあい、無くなった自分の靴や衣服を他人が身に着けていた経験をしています。また、ある時は動物的な情事を偶然目にし、彼女を助けようとして逆に二人から罵られ、黙っているように言われるような体験をします。
♬ ニューヨーク・フィル在任中に演奏する譜面にかなり手を入れており、それを見たトスカニーニが「マーラーの奴、恥を知れ」と罵ったという逸話が残っています。
♬ 夫婦生活が上手くいかず。精神的にも病んだ際に精神科医フロイトの診察を受けています。
♬ 最後に「モーツァルト、モーツァルト」と繰り返しつぶやいて亡くなっています。
♪マーラーの容姿、性格
身長160㎝、痩せ型、後頭部絶壁、黒髪、面長でカワウソのよう、近眼、感情がすぐに顔に現れる、気品があるものの陰気な容姿だったそうです。
♪音楽的背景
♬ 同年代に生まれた作曲家には、プッチーニ、ドビュッシー、リヒャルト・シュトラウス、シベリウスがいます。当時全盛を誇っていたリヒャルト・シュトラウスとマーラーは対照的存在です。
♪マーラーが生まれた時の世界は?
♬ エイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国大統領に当選し、日本では桜田門外の変(井伊直弼が暗殺される)が起こっています。
♪ 黛 敏郎(まゆずみ としろう) 1929.2.20(昭和4年)~1997.4.10(平成9年)
黛 敏郎は日本の作曲家。戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人。東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたっています。 神奈川県横浜市の生まれ。旧制横浜一中(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から1945年東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学して、橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事。
在学中はブルーコーツ等のジャズバンドでピアニストとして活動した他、既に映画音楽も多く手がけています。 1951年最初の国産カラーフイルムによる総天然色映画『カルメン故郷に帰る』で、ブギ調での同名の主題歌作曲を担当。同年、映画「帰郷」で毎日映画コンクール音楽賞を受賞。1953年、芥川也寸志、團伊玖磨と共に「3人の会」を結成。以後作曲家として活動をはじめています。
デビュー当初はドビュッシーやガーシュイン、ミヨー、またガムランなどの南方音楽やモダン・ジャズの強い影響を受けていましたが、留学後はミュジーク・コンクレート、電子音楽、ヴァレーズの音楽様式、ケージの偶然性の音楽やプリペアド・ピアノなど、最新の前衛音楽の様式を次々と日本に紹介しています。
♬ 音楽の長寿番組「題名のない音楽会」(1964.8~1997.3)の初代司会者。
♬ 弟子に千住昭など多数。
♪ 代表作には
管弦楽では涅槃交響曲(1958年・第7回尾高賞受賞作品)、曼荼羅交響曲(1960年)。
オペラでは金閣寺(1976年三島由紀夫の小説「金閣寺」による)。 など
映画では東京オリンピック(東京オリンピック映画協会、市川崑監督、1965年) など
校歌も大阪府立金岡高等学校や東大阪市立上四条小学校、玉美小学校など。
♪黛敏郎が生まれた時の世界は?
♬ 古楽の演奏家ニコラス・アーノンクール(12.6)とジャズピアニストの穐吉敏子(12.12)が生まれています。
♬ アメリカのウォール街大暴落により世界的大恐慌になっています。
♬ 前年にはジャズクラリネットの北村英治(4.8)、漫画家の手塚治虫(11.3)とフランスの指揮者パイヤール(12.6)が生まれています。
♪ ムソルグスキー 1839.3.21(天保10年)~1881.3.28(明治14年)
モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーは、ロシアの作曲家で、「ロシア五人組」の一人。「五人組」の中では、そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いています。
国民楽派の作曲家に分類され、代表作に歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』など。
6歳から母の手ほどきでピアノを始め(そこから、やがてフランツ・リストの小品を弾くまでになったといわれる)、10歳のときサンクトペテルブルクのエリート養成機関ペトロパヴロフスク学校に入学。 ムソルグスキーは武官になることを夢見ており、13歳で士官候補生になりますが、音楽は大切な存在であり続けた。1852年には父が出費して、ピアノ曲『騎手のポルカ』が出版されました。
ムソルグスキー家は農地改革により荘園の半分を収奪され、生活が一変しています。
1865年に母親が没すると、ムソルグスキーにはとりわけ苦痛に思われました。この頃から深刻なアルコール依存症の兆しが見え始めます。
1867年は、『禿山の一夜』の初稿が完成された年でしたが、バラキレフはこれを批判し、指揮することを拒んだため、存命中には上演されませんでした。
文官としての職務は安定しておらず、1867年に余剰人員と宣告され、出勤しても無報酬だった。
1880年に公務員の地位を追われ、1881年初頭に4度の心臓発作に見舞われた。3月28日に42歳で死去。
♬ 想像力に富み最も演奏される作品は、1874年に書かれたピアノのための連作組曲『展覧会の絵』でしょう。この作品は友人であった建築家ヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)の遺作展を歩きながら、そこで見た10枚の絵の印象を音楽に仕立てたもの。19世紀のうちから管弦楽への編曲が試みられていましたが、今日のほとんどの演奏はラヴェルの編曲です。
♬ ムソルグスキーの青年時代は細身の好青年でしたが、『展覧会の絵』を作曲したころにはアルコール依存症により赤ら顔で肥満体系に変わっています。
♪ムソルグスキーが生まれた時の世界は?
♬ フランスの画家ポール・セザンヌが生まれています。(1.19)
♬ 前年にカルメンやアルルの女で有名なビゼー(10.25)が、翌年には白鳥の湖など三大バレーでも有名なチャイコフスキー(5.7)が生まれています。
♪ メンデルスゾーン 1809.2.3(文化6年)~1847.11.4(弘化4年)
芸術家のイメージとして多いのは「貧乏」ではないでしょうか。音楽の世界も同様で、バッハのように教会専属となり生活保障されていた人は稀なことでした。モーツアルトの時代までの多くの作曲家は貴族や教会などから依頼されて、演奏や作曲するだけでは食べていけず、ピアノ教師などをして生計をたてていることが多かったのです。
貴族社会の順列では料理人→庭師→楽師の順だったようで、音楽家の地位は低く生活は大変だったようです。(現在でも音楽家の生活は大変ですよね。)
そんな中、38歳の若さで過労死したことを除けばフェリックス・メンデルスゾーンはすべての面で恵まれていました。ドイツでユダヤ系の家庭に生まれ、広大な敷地内にある館には音楽会が行える大広間がいくつもあり、誕生日には楽団をプレゼントされるほど裕福でした。教養もあり少年時代にはゲーテに可愛がられたといいます。ピアニスト、作曲家、指揮者として天分を発揮し、10歳前後から作曲を始め、12歳で喜劇を執筆、画才もあったといいヨーロッパ中を自由に旅行できたようです。でも父親は芸術家にするつもりはなく跡取りとして銀行家になって欲しかったようです。音楽家にも生活苦(財産苦)を知らない人もいたんですね(ウラヤマシイ~)。でもこの時代にもユダヤ人差別があり、常に周囲の目が気になっていたようです。
♬ メンデルスゾーンは妻子を大切にしていましたが、彼が本当に愛していたのは4歳年上の姉ファニーだったのではないかと言われています。彼女は弟をしのぐ音楽的才能の持ち主だったと言われるほどの女性で生涯500曲以上の作品を残し、アマチュアながら指揮者としても活躍し、メンデルスゾーンが考案した無言歌というジャンル、本当はファニーが生み出したとも云われています。
♪メンデルスゾーンの容姿、性格
身長167㎝のほっそり型、黒い縮れ毛で高い額、オリーブ色の肌、柔和で洗練された表情、礼儀正しく優雅なブルジョワ青年、まじめ、勤勉、ややキザ
♪メンデルスゾーンの実力
♬ メンデルスゾーンは子供の頃にベートーヴェンの第九交響曲をすべて暗譜してピアノで演奏するなど暗譜能力も高く、天才と言われた一人でした。鍵盤楽器奏者として即興演奏でも名を高めていました。
♬ 初めて指揮棒を使い暗譜で指揮を行い、専業指揮者としての下地も作りました。
♬ また、バッハの死後一度も取り上げられなかった「マタイ受難曲」を演奏し、バッハの名を復活させています。
♬ 作曲家としてヴァイオリン協奏曲はベートーヴェンやチャイコフスキーと共に三大ヴァイオリン協奏曲として有名ですし、皆さんも結婚式で聞いた結婚行進曲は「真夏の夜の夢」の中の1曲です。
♬ 音楽には言葉以上のものが表現できると「無言歌集」(春の歌など全8巻48曲)が作られました。そしてこの曲集に触発されて、デンマークの作家アンデルセンが1839年に「絵の無い絵本」を出版しています。
♬ 1847年5月14日に姉のファニーが死去し、それから半年にも満たない11月4日死去。死因は脳卒中と思われる。最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた。」でした。祖父のモーゼス、姉のファニー、そして両親も同じ脳卒中で最期を迎えている[
♪メンデルスゾーンが生まれた時の世界は?
♬ 同じ歳では進化論で有名なオーギャスト・ダーウィンがいます。
♬ 一歳年下にはシューマンとショパンが、二歳年下にはリストがいます。
♬ 三歳の時にナポレオンがロシア遠征に失敗しています。また、グリム兄弟が「グリム童話集」を完成させています。
♪ モーツアルト 1756.1.27(宝暦6年)~1791.12.5(寛政3年)
オーストリア生まれで音楽史上最高の作曲家ともいわれるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人です。
♪モーツアルトの容姿、性格
身長163㎝、痩せ型、頭が大きく二重瞼で大きな鼻、面長で青みがかった褐色の瞳と褐色の髪、色白で小さな手。性格は明朗快活、冗談好きで落ち着きがなく夢想癖があり、筆まめだったと云います。
♪モーツアルトの墓には遺骨が無い!?
天才音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトのお墓には遺骨が無いことをご存じですか? 晩年のモーツアルトは賭け事が好きで生活費にも困る状態でした。そして流行り病が元で亡くなってしまいます。当時、多数の死者が出ていたので街のはずれに穴を掘ってまとめて埋めていたようです。モーツアルトもその中に紛れてしまい何処に埋葬されているのか分からないままだとか。
♪モーツァルトの記憶力
音楽家の中でもモーツァルトは並外れたすばらしい記憶力の持ち主だったと言われていますが、それを証明する次のようなエピソードが残っています。
♬ 彼が父親とともに初めてイタリアに旅行し,ローマ・ヴァチカン宮殿付属のシスティナ礼拝堂を訪れた時のことです。モーツァルトはそこで聴いた門外不出のグレゴリオ・アレグリ作曲の「ミゼレーレ」(これは九声の合唱でできています。)を、その礼拝堂を出た後,自分の記憶を頼りに正確に楽譜に書き写したのでした。その時彼は、はじめ「ミゼレーレ」の楽譜を盗み出したのではないかという疑いをかけられてしまいました。しかし、すぐに彼の記憶力によるものであることが明らかになり、それに感嘆した教皇クレメンス十四世から「黄金拍車」の勲章を授けられたのでした。
♬ ところで、音楽家ではありませんが、日本の歴史上の有名な人物である聖徳太子にも、十人の人々の訴えを一度に聞きわけて、それに答えたという伝説が残っています。もし,この二人が同じ記憶力のテストを受けたとしたら,どちらに軍配が上がるのでしょうか?
♪モーツァルトは天才!?
モーツァルトは作曲時に書き直しはなかったそうです。作曲家や作家など物書きは作品を書き直す(修正)作業はあたりまえだと思うのですが、モーツァルトの場合は頭に浮かんだ旋律を五線紙に書き下ろすだけで、修正はなかったそうです。(譜面は見やすいはずなんだけどな!?)
頭に浮かんでくる響きを五線紙に書き落とすだけで、ピアノ協奏曲や交響曲が出来上がっていったのです。 そして、作曲するのが非常に速かったことでも有名で、三大交響曲(交響曲第39番、40番、41番)といわれる曲想の異なるものを、二か月足らずの間に書き上げています。(五線紙に書くのも早い!!)
♪モーツァルトって天才?Ⅱ
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の初演前夜に劇場支配人が楽譜の揃っていないことに腹を立て「序曲」はどこにあるのかと怒鳴り込んできました。そこでモーツァルトは平然と「心配するなよ。もうできているよ」、「できているって?どういうことだ!どこにある!」と怒鳴られ「僕の頭の中に」と自分の頭をさしながら「最後の音符まで・・」と答えたそうです。 同じように室内楽の楽譜もピアノを弾くモーツァルトの楽譜だけありません。 他のメンバーが心配して聞くと「どの曲も僕の頭の中にあるから心配ない。ピアノ譜を書く必要がないし、時間がもったいないから、書いていない」と言ったそうです。 …………ん~ やっぱ天才!!…………でもそれら全ての演奏楽譜は現存しているのでしょうか?(誰が書き残した?)…………
♪モーツァルトも手抜き?
モーツァルト唯一のオーボエ協奏曲として知られている「オーボエ協奏曲ハ長調K.314」は、「フルート協奏曲第2番ニ長調K.314」と同じ曲です。ケッヒェル番号が同じなので、ややこしいですが、調が違うので、別の曲と考えたほうがいいかもしれませんが手抜き(?)やないでしょうか。最近では、オーボエ協奏曲の方のケッヒェル番号を改訂してK.285bと呼ぶことが多いようです。 ピアノ曲でもケッヒェル番号が違うが、調を変えただけの曲が存在するようですよ。(古今を問わずフレーズが全く同じ曲など沢山ありますね。)
♪モーツァルトが生まれた時の世界は?
♬ 1歳年上にマリー・アントワネットが、1歳年下にはドイツの詩人シラーがいます。
♬ 14歳年下にベートーヴェンがいます。対照的な音楽家二人が同じ時代に生きていたイメージがなかったのは私だけでしょうか。
コメントを残す