♪ 山田 耕筰 1886.6.9(明治19年)~1965.12.29(昭和40年)
山田 耕作としても知られています。 日本語の抑揚を活かしたメロディーで「からたちの花」「赤とんぼ」「砂山」など多くの作品を残し、日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めました。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家です。
♬ また、関西大学を始め、多くの校歌や軍歌の作曲も手がけています。
♬ 1930年12月に「耕作」を「耕筰」に改名すると発表しています。戸籍上は長らく「耕作」のままだったのですが、1956年に再婚したのをきっかけに「耕筰」に改めています。1948年に発表したエッセイ「竹かんむりの由来」(『山田耕筰著作全集 3』岩波書店に所収)によると、「山田耕作」と同姓同名の人物が多く(全国に100人以上いたらしい)、それゆえのトラブルが頻発していたのが、改名の理由の一つであったとのこと。もう一つは、山田の指揮姿を見た颯田琴次から、後頭部の髪の乱れを指摘され、カツラをつけろと言われた後でした。カツラを嫌った山田は丸坊主にしたものの、その姿を気に入っておらず、それで名前の上にカツラをかぶせることを考えた。竹かんむり=ケケ(毛毛)というわけで「筰」の字は『康煕字典』から見つけたものだそうです。
♬「カルピス」の商品名・社名は、同社創業者・三島海雲から相談を受けた山田が「最も響きがよく、大いに繁盛するだろう」とアドバイスしたことで決まったものであるとされています。
♪山田耕筰は、何回か結婚していた?
名前が分かったのは、2人だけ。
そのうちの1人は、1915年2月5日、山田耕筰がドイツに留学しているときに出会いました。そして、その時の下宿先の娘「ドロテア・シュミット」と山田耕筰は婚約。もう1人の山田耕筰の婚約者は、日本人。婚約者の名前は、辻輝子(つじ てるこ) 辻輝子さんは、山田耕筰と同じ音楽関係の人物でした。山田耕筰に子供はいませんでした。 ですが、山田耕筰は子供が関係する楽曲を作っているようです。
♪山田耕筰が生まれた時の世界は?
♬ ムソルグスキーの交響詩『禿山の一夜』が初演されています。
♬ ドイツの指揮者フルトヴェングラーは同じ年です。
♬ バーネットの「小公女」が発表され、アメリカでは自由の女神の除幕式があった年です。
♬ 日本では北海道庁が設置され、関西法律学校(後の関西大学)が創立されました。
♪ 山本 直純 (やまもと なおずみ) 1932.12.16(昭和7年) ~ 2002.6.18(平成14年)
森永製菓「エールチョコレート」のCMソング「大きいことはいいことだ♪」と指揮棒を振りながら大きな声で歌っていた口ひげと黒縁メガネがトレードマークの人を覚えていますか?そうです。あの人です。
♬ 直純は昭和7年生まれで、齋藤秀雄指揮教室で齋藤秀雄に師事。同時期の同門に、小澤征爾、久山恵子、秋山和慶、飯守泰次郎、尾高忠明らがいます。
♬ 小澤は後に、「自分は日本に留まって音楽の底辺を広げる。お前は世界を目指せ」と直純から告げられたことがあった、と語っています。東京芸大では1学年上級の打楽器科学生岩城宏之と知り合って意気投合し、学生オケをつくり、岩城と交代で指揮をするようになりました。3年生終了後、指揮科へ転じ、渡邊暁雄に師事。1958年、長男出生の年に大学を卒業。初め直純も小澤らと同じように指揮者として世界で活躍することを夢見ていましたが、大学指揮科在学中に眼を患い断念しています。
♬ 大学在学中からテレビや映画の分野に積極的に進出し、ポピュラーからクラシックまで幅広く作曲活動を行っています。同時に、テレビなどを通したクラシック音楽の普及・大衆化に力を注ぎました。中でも最も知られているのは、1973年から10年間放送されたTBSのテレビ番組「オーケストラがやってきた」の企画・音楽監督・出演です。また、1983年に落成した大阪城ホールのこけら落としとして、「サントリー1万人の第九」を企画。当時・サントリーの佐治敬三社長の後押しもあり、83年スタート。98年の第16回まで連続して構成・総監督・指揮を務めてきました。(後任は佐渡裕)
♬ 映画音楽では「肉体の門」、「雪国」、「男はつらいよシリーズ」など。テレビ番組では「ハレンチ学園」や「武田信玄」など大河ドラマも多数。「マグマ大使」、「新オバケのQ太郎」、「8時だョ!全員集合」などお馴染みの番組作品も多数作曲。童謡などでは「一年生になったら」、「歌えバンバン」、「こぶたぬきつねこ」(作詞も担当)などなじみの作品が多数あります。
♬ 直純は同時に弾いたでたらめなピアノの10音を全て聞き分けられる驚異的な耳の持ち主でした。しかし、彼は東京芸大に一浪しています。何故か?それは聞き取った音を正確に声に出すことができなかったため、ソルフェージュで不合格になったのだそうです。
♪山本直純が生まれた時の世界は?
♬ ローラ・インガルス・ワイルダーの「大きな森の小さな家」が発表されています。
♪ ラヴェル 1875.3.7(明治8年)~1937.12.28(昭和12年)
モーリス・ラヴェルは『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』『ボレロ』の作曲、そして『展覧会の絵』のオーケストレーションで知られているフランスの作曲家です。
♬ 音楽好きの父の影響で、6歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学び始めています。両親はラヴェルが音楽の道へ進むことを激励し、パリ音楽院へ送り出します。音楽院に在籍した14年の間、ガブリエル・フォーレに作曲を師事しています。
♬ 1900年から5回にわたって、有名なローマ大賞を勝ち取ろうと試みますが、最後まで大賞を受賞できませんでした。年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となった30歳では、大賞どころか予選段階で落選してしまいました。すでに『亡き王女のためのパヴァーヌ』、『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは音楽批評家の間に大きな波紋を呼び、コンクールの公正さの点からも問題視されました。この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれています。
♬ 1901年、ラヴェルの個性が確立された「水の戯れ」が書かれ、曲は当時の音楽的流行から自立したものとなりました。表現的慎ましさ、謙虚さ、エキゾチックでファンタジックな好み、形式的な完璧さに対するほとんど強迫観念とも言える探求により1901年から1908年のあいだに多くの作品がうみだされました。 ソナチネ(1903年)、序奏とアレグロ(1906))、スペイン狂詩曲(1907年)、マ・メール・ロワ(組曲)(1908年)、夜のガスパール(1908年)は、アロイジウス・ベルトランの詩に触発されて書かれています。
♬ 『ボレロ』は同一のリズムが保持される中で、2種類のメロディーが繰り返されるという特徴的な構成を有しており、現代でもバレエの世界に留まらず、映画やTVコマーシャルなど広く愛される音楽の一つです。
♪ラヴェルが生まれた時の世界は?
♬ 前年(1874年)にはシェーンベルクが誕生しています。
♬ 「ペルシャの市場」の作曲者ケテルビーは同じ歳です。そして 同じ年にトルストイの「アンナ・カレーニナ」が発表されています。
♪ ラフマニノフ 1873.4.1(明治6年)~1943.3.28(昭和18年)
セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフは、ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者
4歳のとき、姉たちのために雇われた家庭教師が音楽の才能に気づきピアノのレッスンを受けた。
9歳のとき一家は破産し、まもなく両親は離婚。父は家族の元を去っていきました。
しかし、ラフマニノフは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学しています。
♬ しかし彼は教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生で、12歳のときにすべての学科の試験で落第するという事態に陥り、悩んだ母はラフマニノフの従兄にに相談し、彼の勧めでラフマニノフはモスクワ音楽院に転入。寄宿しながらピアノを学ぶことになります。
♬ 特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられています。 1891年、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛び抜けて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を完成させています。
1900年から翌年にかけて、2台のピアノのための組曲第2番とピアノ協奏曲第2番という2つの大作を完成。特にダーリに献呈されたピアノ協奏曲第2番は、作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演され、大成功を収めた。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。
♬ ラフマニノフ自身は1941年の『The Etude』誌のインタビューにおいて、自らの創作における姿勢について次のように述べていた。
『私は作曲する際に、独創的であろうとか、ロマンティックであろうとか、民族的であろうとか、その他そういったことについて意識的な努力をしたことはありません。私はただ、自分の中で聴こえている音楽をできるだけ自然に紙の上に書きつけるだけです。…私が自らの創作において心がけているのは、作曲している時に自分の心の中にあるものを簡潔に、そして直截に語るということなのです。』
♬ 作品の特徴としてメロディには第2拍から始まるものが、ほかの作曲家と比べてかなり大きな割合を占めているようです。
♪ラフマニノフが生まれた時の世界は?
♬ キリスト教禁止が撤廃(江戸初期の禁止以来,初めてキリスト教公認)
♬ 小林一三(1.3阪急電鉄・阪急百貨店・阪急東宝グループの創業者)が誕生
♪ リスト 1811.10.22(文化8年)~1886.7.31(明治19年)
フランツ・リストはシューマンやショパンより1年後に生まれました。リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれていました。どんな曲でも初見で弾きこなし、その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていました。
彼の死後彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われています。オーストリア帝国領にあったハンガリーに生まれています。
♬ ピアニストとしては演奏活動のみならず、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られています。
♬ リストの友人であったフェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲を持ってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしています。しかし、その手紙には続きがあり「彼の最高の演奏は、それが最初で最後だ」と書いています。リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない即興をふんだんに盛り込んでいました。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストでしたが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていました。
♬ ハンガリー人としてのアイデンティティを抱いていたことから、死後も「ハンガリー」の音楽家として認識・記述されることが多いのですが、その一方で生涯ハンガリー語を習得することはなかったのです。
♬ 父親の遺言「お前の女関係が気がかりだ」が的中するほど恋愛関係に関しては不誠実な人物でしたが、別れた女性ともその後顔を合わせていることから人間としては魅力的な好人物だったようです。
♬ 1歳年上のショパンとはピアニスト・作曲家として尊敬しあい仲が良かったのですが、それぞれの彼女の影響でショパンが亡くなるまで非難しあう関係になっています。(いつの時代も男性は女性次第ですね……)
♬ ピアニストとしても才能のあったリストの娘コジマは二人の子供を連れて、ワーグナーの妻となり三人の子供を授かっています。
♪リストの容姿、性格
若い頃は細身で180㎝の長身。ワンレングス、細面、魅力的な目、優雅で洗練された物腰でロマンスのヒーロー、晩年は面影なし。自己顕示欲が強いが大の人情家。
♪リストが生まれた時の世界は?
♬ 前年にショパン(3.1)とシューマン(6.8)が生まれています。
♬ 翌年にナポレオンがロシア遠征し、敗北しています。(1880年にチャイコフスキーが祝典序曲1812年として作曲しています。)
♪ リヒャルト・シュトラウス 1864.6.11(文久4年)~1949.9.8(昭和24年)
若い頃は細身で180㎝の長身。ワンレングス、細面、魅力的な目、優雅で洗練された物腰でロマンスのヒーロー、晩年は面影なし。自己顕示欲が強いが大の人情家。
私は1968年にアメリカで公開された映画「2001年宇宙の旅」の冒頭に使われていた壮大な曲。『ツァラトゥストラはかく語りき』でリヒャルト・シュトラウスの名前を知りました。そしてウィーンのヨハン・シュトラウス一族にこんな曲を書く人がいるんだと思っていましたが、一族とは血縁関係はありませんでした。
♪リヒャルト・シュトラウスの容姿、性格
長身細身、短髪、銀行員風の地味な感じでしたが、後年は肥満体になっています。ユーモアのあるせっかちな人のようでした。
♬ リヒャルト・シュトラウスはモーツァルトに匹敵するほどの音楽的才能が有ったようですが時代に翻弄され、私達が知るような曲を沢山残せませんでした。
♬ ドイツの後期ロマン派を代表する作曲家のひとりで、交響詩とオペラの作曲で知られています。また、指揮者としても活躍しました。
♬ 親交のあったマーラーと同様に、リヒャルト・シュトラウスも又作曲家としてのみならず指揮者としても著名であり、生前は自作も含め数多くのオペラやコンサートを演奏しています。指揮者としてのリヒャルト・シュトラウスは、トップクラスの歌劇場であるミュンヘンの宮廷歌劇場第一楽長、ベルリン・フィルハーモニー音楽総監督及びウィーン国立歌劇場総監督として指揮者・芸術監督をつとめています。
♬ リヒャルト・シュトラウスは第二次世界大戦終結後、ナチスに協力したかどで連合国の非ナチ化裁判にかけられましたが、最終的に無罪となっています。なお、1940年(昭和15年、皇紀2600年)にはナチスの求めに応じて、日独伊防共協定を結んだ日本のために「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」を書いています。
♬ 歌曲の分野ではシューベルトに始まったドイツ歌曲の伝統を継ぎ、近代ドイツ歌曲作家の一人に数えられています。また、標題交響曲である「アルプス交響曲」などのような作品も忘れてはならないと思います。
♬ ソプラの歌手として弟子であった妻パウリーネは勝気、傲慢、ケチで悪妻の見本とされています。小遣いが少なかったシュトラウスはカードゲームで小遣いを稼いでいました。
♪リヒャルト・シュトラウスが生まれた時の世界は?
♬ 彼が生まれた年にロートレックが「戦争と平和」を発表し、 日本では池田屋事件が起こっています。
♬ 「叫び」で有名なノルウェーの画家ムンクは1歳年上になります。
♬ 誕生翌年にリンカーンが暗殺(4.14)されています。そして、魔法使いの弟子を作曲したデュカス(10.1)とフィンランディアを作曲したシベリウス(12.8)が生まれています。
♪ リムスキー=コルサコフ 1844.3.18(天保14年)~1908.6.21(明治41年)
ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフはロシアの作曲家。ロシア五人組の一人で、色彩感あふれる管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残し、調性に色を感じる共感覚者であったといわれています。
軍人貴族の家庭に生まれ、幼児期より楽才を顕す。12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学し、ロシア海軍に進んで艦隊による海外遠征も体験しています。
1859年からピアノを始め、1861年にバラキレフと出会って、ようやく真剣に作曲に打ち込みます。バラキレフは、リムスキー=コルサコフが航海演習のない時に作曲の指導をして、励ましています。
バラキレフとの出会いによって、後の「五人組」の同人となる他の作曲家とも面識を得ています。
♬ 1871年、それまで音楽や作曲については、独学や、「五人組」の仲間内での集団学習だけだったにもかかわらず、ペテルブルク音楽院から作曲と管弦楽法の教授に任命されます。
♬ 千夜一夜物語に基づく代表作といえる交響組曲「シェヘラザード」 Op.35 は1888年に作曲しています。
日本での初演は1925年4月26日に歌舞伎座における「日露交歓交響管弦楽演奏会」にて、山田耕筰指揮の日露混成オーケストラによるものが初演とされています。戦前期の日本では難曲とみられており、第二次世界大戦末期の満州でこの曲を指揮したことがある朝比奈隆によれば、当時としては「マーラー級の大曲」だったという。
♬ リムスキー=コルサコフは7人の子をもうけています。そのうち、1884年生まれの第5子ナジェージダは、1908年にユダヤ系の作曲家マクシミリアン・シテインベルクと結婚しており、当時リムスキー=コルサコフに作曲の個人指導を受けていたストラヴィンスキーは、管弦楽曲《花火》作品4を、ふたりの結婚記念にささげています(シテインベルクはショスタコーヴィチの恩師としても有名)。
♪リムスキー=コルサコフが生まれた時の世界は?
♬ スペインの作曲家サラ・サーテが生まれています(3.10)
♬ メンデルスゾーンが「ヴァイオリン協奏曲」を作曲しています。 ♬ 前年にはペール・ギュントを作曲したグリーグ(6.15)が生まれています。翌年にはレクイエムを作曲したフォーレ(5.12)が生まれています。
♪ ルロイ・アンダーソン 1908.6.29(明治41年)~1975.5.18(昭和50年)
アメリカの作曲家。軽快でユーモアに富んだ曲調の管弦楽曲で知られています。ほとんどの作品はアーサー・フィードラーの指揮するボストン・ポップス・オーケストラによって紹介されました。ルロイ・アンダーソンは「アメリカ軽音楽の巨匠」と評されています。
♬ スウェーデン移民の両親の許にマサチューセッツ州ケンブリッジにて生まれています。教会オルガニストを務める母親からピアノの手ほどきを受けています。父親は郵便局員でしたが音楽好きで、家庭ではマンドリンやバンジョーをたしなんでいたといわれています。
♬ 大戦中はスカンジナビア諸言語に関する情報将校として、ペンタゴンで働いていたそうです。
♬ 最初のヒットナンバー『シンコペイテッド・クロック』はゴールドディスク賞を受け、ビルボードチャートの11位まで昇っています。また、『ブルー・タンゴ』の録音は、器楽曲で初めてミリオンセラーになっています。フィードラー指揮のボストン・ポップスによる録音では、録音技術を駆使し生演奏の感覚に縛られない作品もあります。たとえばシンコペイテッド・クロックでは、ウッドブロックの出力を左チャンネルから右チャンネルへ動かすことによって、左右にゆれているような効果を出した録音が残されています (関連商品の「トランペット吹きの休日 ~ルロイ・アンダーソン名曲集」に収録) 。オーケストラによっては生演奏ならではの演出もあるようです。
♬ 1953年の調査によると、アンダーソンはアメリカのオーケストラで最もよく演奏されるアメリカ人作曲家でした。
♬ 1975年、肺癌のためコネティカット州ウッドベリーの自宅で死去。66歳没。1988年に「作曲家の殿堂」入りを果たしています。アンダーソンの音楽は、今日でもポップス・オーケストラの定番レパートリーとして演奏され続けています。
♪ルロイアンダーソンが生まれた時の世界は?
♬ 指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンや朝比奈 隆は同じ歳です。
♪ ロッシーニ 1792.2.29(寛政4年)~1868.11.13(明治元年)
ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニは大変人気のあったイタリアのオペラ作曲家です。19年間に39曲の歌劇を書き、特に1812年から18年の7年間に27作という超ハイペース(年3~4本!)でオペラを書きました。 (寝る間があったんでしょうか??) このようにロッシーニは大ヒットを生み出す超売れっ子オペラ作曲家だったわけですが、決して人気だけの流行作曲家ではありませんでした。
ベートーヴェンは1822年、「ロッシーニは私と同時代の極めて重要な作曲家ケルビーニと並び称される」と記していますし、ワーグナーもロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」について、「彼の音楽がなかったらシラーの戯曲に興味を持つ者は誰もいないであろう」と述べています。
♬ 名実ともに偉大な作曲家と見られていたロッシーニは、1829年8月3日、最高傑作とされる歌劇「ウィリアム・テル」をパリで初演し、成功を収めます。 ところが、このオペラが上演されて大成功を収めた直後、人気と実力の絶頂にあったロッシーニは突如37歳で音楽界からの引退を発表したのです。 ロッシーニが作曲家を突然廃業したのは、楽才が枯渇したからでも、怠け者だったからでも、色恋沙汰からでも、病気からでもありませんでした。
♬ 彼が引退したのは、何と、料理に没頭し、高級レストランを開き、豚を飼育するためだったのです。 ロッシーニの後半生は、美食家専門レストラン「グルメ天国」を切り盛りし、ボローニャではトリュフを掘る豚を飼育する毎日で、音楽の世界と同様、料理の世界でも彼は有名になりました。牛フィレ料理「ロッシーニ風トゥルネードー」は今も伝えられております。
♬ ベルリオーズがいみじくも記したように、「音楽はイタリア人にとって官能的な喜びそのもの」なのであります。ロッシーニにとっては、「音楽も喜び。 食も喜び。その間には何の違いもない」という率直な物の見方には、「音楽は崇高」といった先入観を見直す意味でも、考えさせられてしまいます。
♬ 美食家だったおかげで信じがたいほどの肥満だったようです……
♬ また、現実的な感覚に長けていたロッシーニは、物事の引き際というものを良く心得ていたとも言えます。オペラ・ブッファはそろそろ飽きられ、ヴェルディやワーグナーの時代となりつつありました。 大胆果敢にして素早い決断
♪ロッシーニが生まれた時の世界は?
♬ ロッシーニが生まれた前年(1971年)にモーツアルトが亡くなっています。生まれた翌年(1973年)にルーヴル美術館が開館しています。
♪ ロドリーゴ 1901.11.22(明治34年)~1999.7.6(平成11年)
ホアキン・ロドリーゴ・ビドレは、スペインの作曲家、ピアニスト。
3歳のころに悪性ジフテリアにかかり、視覚障害者となり視力を失いますが、8歳でピアノとヴァイオリンの学習を始めます。早くから楽才を示し、芸術家として大成。数々の作品を通じてクラシック・ギターの普及に功があったとされ、とりわけ《アランフエス協奏曲》はスペイン近代音楽ならびにギター協奏曲の最初とみなされています。
本人はピアニストであり、ギターは弾くことができませんでした。
作風は古典の様式とリズムを土台として、スペインの国民音楽と師であるデュカスのフランス音楽の影響を受けた旋律的で色彩色豊かな独自の音楽であり、その作風を貫いています。
作品は歌劇、管弦楽、ピアノ曲、ギター曲など数多く、各ジャンルに作品を残しています。
♬ 代表作のアランフェス協奏曲は1939年にパリにおいて、クラシック・ギターの独奏と管弦楽のために作曲。親しみやすい中間楽章の「アダージョ」は、20世紀のクラシック音楽としては最も有名な楽曲のひとつとなっています。マイルス・デイヴィスが1960年にLP「スケッチ・オブ・スペイン」の中核として取り上げるなど、様々な編曲によって広く知られています。この作品の成功は、20世紀におけるギター協奏曲の創作に先鞭をつけたとともに、その後のジェームズ・ゴールウェイやジュリアン・ロイド・ウェバーからロドリーゴへの協奏曲の依嘱につながることとなりました。
♬ ロドリーゴはスペイン国内のみならず欧州、アメリカ、イスラエルや日本へ演奏旅行に赴き、教育やピアノリサイタルといった多様な活動をしています。中でもアルゼンチン(1949年)、トルコ(1953年、1972年)、日本(1973年)、メキシコ(1975年)、ロンドン(1986年)、で行ったものが重要なものとされています。
♬ 1954年にアンドレス・セゴビアの依嘱により、《ある貴紳のための幻想曲》を作曲。《アンダルシア協奏曲》はセレドニオ・ロメロから、3人の息子と共演できる作品を打診されて創られた作品です。
♬ 1991年にスペイン国王ファン・カルロスより貴族に列せられ、「アランフエス庭園侯」の爵位を授かった。1996年には、スペイン国民にとって最高の名誉を意味するアストゥリアス王太子賞を授与されたほか、1998年にはフランスの芸術文化勲章を獲得しています。
♬ 1999年にマドリードにて老衰のため逝去。享年97。ビクトリア夫人とともにアランフエスの墓地に永眠しています。
♬ 亡くなる半年前に、テレビ番組の収録を通じ、当時パリに在住していたギタリスト村治佳織が訪れて彼が作曲した曲を数曲披露しています。
♪ リヒャルト・ワーグナー 1813.5.22(文化10年)~1883.2.13(明治16年)
世界中の作曲家が選ぶ偉大な作曲家にも入り、とても真似ができないと言われるほどの天才作曲家のワーグナー。 ユダヤ人嫌いのワーグナーは父母共にドイツ人ですが養父が実の父であれば1/2ユダヤ人。そんな彼の人物像について下記のような記事がありました。
• 亡命中、自分を保護してくれたリストを音楽的にも深く尊敬しており、唯我独尊とされる彼が唯一無条件で従う人物とされる。
• 夜中に作曲しているときには周囲の迷惑も考えずメロディーを歌ったりする反面、自らが寝るときは昼寝でも周りがうるさくすることを許さなかった。
• 常軌を逸した浪費癖の持ち主で、若い頃から贅沢をして支援者から多額の借金をしながら踏み倒したり、専用列車を仕立てたり、当時の高所得者の年収5年分に当たる額を1ヶ月で使い果たしたこともあった。リガからパリへの移住も、借金を踏み倒した夜逃げ同然の逃亡だった。
• 過剰なほどの自信家で、「自分は音楽史上まれに見る天才で、自分より優れた作曲家はベートーヴェンだけだ」と公言して憚らなかった(とはいえリストやウェーバーなど、彼が敬意を払っていた作曲家は少なくなかったようですが)。このような態度は多くの信奉者を生むと同時に敵や反対者も生む結果となりました。
• ブラームスとそりが合わず、犬猿の仲だった。1870年にウィーンで催されたベートーヴェンの生誕100年セレモニーに講演者として招待を受けて快諾したが、土壇場で出席者リストにブラームスの名を見つけて出席を拒否した。
• 動物好きで犬とオウムを飼っており、動物実験に反対する投書を寄稿したこともある。
♬ ここまでの記事でワーグナーの人となりが見えてきましたか?でも特筆されるのは支援し続けたバイエルン国王の年収550万マルクより4倍近くの2000万マルクの資金を国費から援助させ、国王を退官させてしまったことではないでしょうか。(これが元でドイツ統一が加速したとか。)
♬ 彼の性格をよく物語っているセリフを紹介します。「世界は私の必要を満たす義務がある。人々に楽しみを与えているこの私が、ほんの少し贅沢をしたがるのが、そんなに間違っているのか!」
♪ワーグナーの容姿
巨大な頭側部、突き出た額、茶髪、碧眼、鉤鼻、しゃくれ顎、近眼。身長は166.5cm(実際は160㎝以下だったとか)。後妻のコジマは父親(リスト)似の長身だったため、夫妻での写真撮影では身長差が目立たないように工夫した。
♪ワーグナーが生まれた時の世界は?
♬ オペラ「椿姫」「アイーダ」などで有名なヴェルディが誕生(10.10)
♬ ベートーヴェンの交響曲第7番初演(12.8)
♬ 一歳の時に「落穂ひろい」等で有名なフランスの画家ミレーが生まれており、日本では滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」を完成させています。
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