か行の作曲家

グリーグ 作曲家
グリーグ
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♪ ガーシュイン 1898.9.26(明治31年)~1937.7.11(昭和12年)

 ジョージ・ガーシュインはポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍しアメリカ音楽を作り上げた作曲家として知られています。通称『完璧な音楽家』。  ユダヤ系ロシアの移民の息子として、ニューヨークのブルックリンの生まれました。

♬ 彼の当初の目標はクラシックのピアニストでした。彼は15歳で高校を中退してプロのピアニストになります。 そこで彼は、当時のジャズ界に君臨していたアーヴィング・バーリン(Irving Berlin)やジェローム・カーン(Jerome Doviol Kern)の多くの作品を研究する機会を得ることができ、翌年から相次いで作られたジャズ・ソングに大きな影響を与えています。 1919年の歌曲「スワニー」や『アイ・ガット・リズム』などをはじめ、おびただしい数のヒットメーカーとして有名になります。

♬ 1924年には『ラプソディ・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)を発表。当時ガーシュウィンにとって管弦楽法は未知領域だったためファーディ・グローフェの協力を得て、ジャズとクラシックを融合させたこの作品は「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価された。その後独学でオーケストレーションを学び、いくつかの管弦楽作品を残しています。 そのひとつ『パリのアメリカ人』(An American in Paris、1928年)もよく知られている曲です。

♬ 因みに、オーケストレーションを学びたいがためにイーゴリ・ストラヴィンスキーの元を訪れたら、クラシック作曲家としては異例の高収入で知られていたことから、逆に「如何すればそこまで収入を上げられるのかこちらが教えてほしい」と言われたというエピソードが伝わっています(ストラヴィンスキーは晩年のインタビューでこれを事実無根だと否定しているようですが、「でも、そういうことがあったら、楽しかっただろうなあ」とも語っているようです)。また、モーリス・ラヴェルにも教えを請いましたが、ラヴェルからは「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないでしょう」と言われたといいます。

♬ また『ポーギーとベス』は、若い頃から、ポピュラーソングの作曲など、歌の道を歩んできたガーシュウィンが、その歌による最大の金字塔を打ち立てた記念すべき作品です。このオペラは、全編にジャズの手法がふんだんに用いられており、ガーシュウィンの音楽のもつ魅力があますところなく表れています。作曲は1934年から翌年にかけて行われ、その年の9月にボストンで初演されました。

♪ジョージ・ガーシュインが生まれた時の世界は?

♬ 日本のオーケストラのパイオニア的存在、近衛秀麿は同年11.18生まれ。

♬ トーマス・エジソンが映画を発明したのもこの年(1898年)です。

♪ 加古 隆(かこ たかし)1947.1.31(昭和22年)~ 

 作曲家、ピアニスト。 大阪府豊中市出身。東京藝術大学作曲科卒、同大学大学院修了。パリ国立高等音楽院卒。 息子は俳優・声優の加古臨王。

 音楽とは全く縁のない家庭に生まれ、大阪府豊中市で育つ。

 音楽との出会いは小学校のとき。知り合い宅に行った際、当時日本ではまだ珍しかったレコードプレーヤーと、1枚だけあったLPレコード。そのレコードを聴いた加古は大変心地よくなり、これを機にその知り合い宅へレコードを聴きたいがために、泊り込みで通うようになった曲がトスカニーニ指揮、ベートーヴェン作曲の交響曲第5番『運命』であった。

 中学を卒業後、大阪府立豊中高等学校へ入学。1年のとき、先輩に誘われて行ったフェスティバルホールでのアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのライブで、ジャズの刺激的な音に体を雷に打たれるほどの衝撃を受けた。

 1965年、東京藝術大学作曲科へ入学。その後約1年間は、作曲の勉強よりもジャズの演奏活動に夢中になっていた。三善晃の指導をきっかけに作曲に魅力を感じ、ジャズからは意識的に距離を置き、聴くこともやめ、現代音楽の作曲家を志す。

 1969年、同大学院へ進学。在学中の翌1970年には、自身の作品が毎日音楽コンクール作曲部門・管弦楽曲第2位を受賞するほか、翌年には「オーケストラの為の《構成》」が若杉弘指揮、東京フィルハーモニー交響楽団により初演。

1971年7月、フランス政府給費留学生として渡仏。メシアンは折に触れて、「加古君、あなたが日本人であることは、とてつもない財産なのです」と語っていた。そしてこの言葉が、西欧風の曲を主に書いていた加古に、自分の生まれ育った国である日本に目を向けさせるきっかけとなりました。

♬ パリに留学して1年が経った頃、学友の家で、今まで知らなかったフリー・ジャズのレコードを聴く。現代音楽とフリー・ジャズの間に、何かしらの共通性を見出した加古は、これなら自分にもできると思った。そして、ある偶然のきっかけで、学校には籍を残したまま、1973年、即興ピアニストとしてプロ・デビューを果たす。このことが以後、現代音楽分野における作曲活動と、ジャズにおける即興演奏活動の共存を生み出し、加古にとって、より広い意味での現代音楽の追求へとつながった。

 ♬ 音楽評論家野口久光の「一度でいいから、誰でも知っているメロディーを、取り上げてごらん」という言葉から始まった作品は当時の加古の音楽とは著しく性格を異にするものだったため、この曲を初演すべきか否か、当日の朝まで迷っていた。しかしながら思い切って演奏に踏み切った。加古の音楽は、この作品を機に、大きくその容貌を変化させる。まさに、作曲家・ピアニストとして自覚する契機となったのが「ポエジー」であった。

♪加古隆が生まれた時の世界は?

♬ クラシックギターの荘村清志は同年10.13生まれ。

♬ 誕生2年前に広島、長崎に原子爆弾が投下され、第二次世界大戦は敗戦

♪ 貴志 康一(きし こういち)1909.3.31(明治42年)~ 1937.11.17(昭和12年)

  大阪府吹田市出身の作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。

 16歳の時に、大阪で、ヴァイオリニストとしてデビュー。

 旧制甲南高等学校を2年生の時に中退後、ジュネーヴ音楽院に入学し、優秀な成績で修了。

 19歳より、ベルリン高等音楽学校でカール・フレッシュの教室に在籍。1929年、1710年製のストラディヴァリウスを購入。三度のヨーロッパ留学の中でも、特に1932~35年のベルリン滞在時に作曲家・指揮者として活躍し、1935年3月、ドイツテレフンケン社に自作作品19曲を貴志自身の指揮でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と録音した。またフルトヴェングラーとも親交があったことで知られる。ヴァイオリニストから作曲・指揮者に転向したと言われるが、作曲・指揮活動で多忙になってからもヴァイオリニストとしての活動も諦めてはいなかった。

♬ 1935年に帰国した後は指揮者などとして活躍しますが、1936年に虫垂炎をこじらせ、1937年11月、腹膜炎の為、28歳で死去した。

♬ 湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞の後の晩餐会の時に、貴志康一の楽曲「竹取物語」が流れたと伝えられている。

♬ 母校の甲南高等学校には「貴志康一資料室」があり彼の作品に触れることができる。

♬ 生誕100周年に当たる2009年3月31日、「貴志康一生誕100年記念コンサート」が小松一彦指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏でザ・シンフォニーホールにて行われた。歌曲「天の原」「かごかき」「赤いかんざし」「力車」、ヴァイオリン協奏曲、交響曲「仏陀」が演奏された。

♬ また、甲南大学および甲南高等学校・中学校では、様々な場面で彼のヴァイオリン曲「竹取物語」が使用されている。中高では、講堂での入学式・卒業式・入試説明会などの式典開始前には同曲の音源が流れるほか、授業の開始・終了時および最終下校時刻にはアレンジ音源が流れる。(それぞれ別のアレンジ)

♪貴志康一が生まれた時の世界は?

♬ ベニーグッドマンは同年5月30日生まれ

♬ 誕生年にアンドレ・ジッドの「狭き門」、ガストン・ルルーの「オペラ座の怪人」が発表されています。

♪ クライスラー 1875.2.2(明治8年)~1962.1.29(昭和40年)

 フリッツ・クライスラーは、オーストリア出身の世界的ヴァイオリニスト、作曲家。後にフランスを経てアメリカ国籍に。ユダヤ系。本名はフリードリヒ・クライスラー 。

 ジークムント・フロイトと親しい医者(町の開業医)の子としてウィーンに生まれました。

 父の勧めで3歳の頃からヴァイオリンを習い始めますが、あまりにも飲み込みが早く、7歳で特例としてウィーン高等音楽院に入学し、10歳にして首席で卒業。その後、パリ高等音楽院に入学、12歳にして首席で卒業しました。

 1888年(13歳)、アメリカのボストンで初演奏会を開いて成功を収め、翌年オーストリアに凱旋帰国。

 1895年(20歳)にはオーストリア帝国陸軍に入隊、復帰後、再びヨーロッパ各地で演奏活動を開始。クライスラーはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験を受けたこともありましたが、「音楽的に粗野」「初見演奏が不得手」という理由で落とされています。この頃から、レパートリー拡大のために少しずつ作曲も始めることになりました。

  大戦終結後はマネージャーが同じだったことからセルゲイ・ラフマニノフと親交を深めてグリーグの「ヴァイオリンソナタ第3番」などの録音を残しています。ラフマニノフはコレルリの主題による変奏曲をクライスラーに献呈すると共に「愛の喜び」と「愛の悲しみ」の2曲をピアノ独奏用に編曲しています。一方、クライスラーはラフマニノフの歌曲にヴァイオリンのオブリガードを追加した編曲を残しています。

 1923年には来日を果たしています。

  1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されたのを機にフランス国籍を取得し、パリに移住。翌1939年、ヨーロッパに第二次世界大戦の足音がしのびよると、アメリカ永住を決意してニューヨークに移り、1943年にはアメリカ国籍を取得。以後の生涯では一度もヨーロッパに戻ることはなかった。

 1962年、ニューヨークで心臓疾患のため死去。

♪クライスラーの偽作

♬ クライスラーは演奏旅行先にある歴史ある図書館などで埋もれていた作品を発掘し、それを演奏会にかけることを楽しみにしていた。その埋もれた作品をそのまま演奏するのみならず、作品の旋律のごく一部を自作に取り入れ、その自作をしばしば「過去の(忘れられた)作曲家の作品を『再発見』した」と称して演奏・出版していました。

♬ 『ニューヨーク・タイムズ』の音楽担当記者が、「編曲」と銘打っているのに原曲が世に出てこないことを疑問に思い、当時ウィーンに戻っていたクライスラーにそのことを尋ねて証拠品の提出を求めると、クライスラーはあっさりと「○×作曲・クライスラー編曲」とある曲はほぼ自作であることを認めたばかりでなく、どの曲のどの部分をどう・どれだけ引用し、どの部分が自分の作曲であるか事細かく答えたということです。

♬ クライスラーによってフランス・バロック音楽やヴィヴァルディの再発見のきっかけが作られました。なお、クライスラーの「編曲」のうち、問題になったのはあくまでバロック期などの作品(を騙った作品)であり、古典派・ロマン派以降のものは純粋な編曲である。

♪クライスラーが生まれた時の世界は?

♬ 同年にモーリス・ラヴェル(3.7)、ケテルビー(8.9)が誕生しています。

♬ トルストイが「アンナ・カレーニナ」を発表

♪ グリーグ 1843.6.15(天保14年)~1907.9.4(明治40年)

 エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグは、ノルウェーの作曲家。

 現地語での発音は「エドヴァル・グリッグ」に近い。ドイツ語読みの影響で「グリーク」と表記されることもあります。

 グリーグはノルウェーの民族音楽から着想を得て、国民楽派の作曲家として注目されました。民族音楽からの深い影響は『ペール・ギュント』第1組曲の第1曲「朝」の冒頭がノルウェーの民族楽器であるハリングフェーレの共鳴弦を端からつま弾いた時の旋律から始まっていることからもうかがうことができます。

♬ グリーグの肖像は、旧500クローネ紙幣に描かれていました。

♬ グリーグはとても小柄でした。生前は卓越したテクニックのピアニストとしても著名で、自作を携えヨーロッパをたびたび演奏旅行しています。晩年のアコースティック録音およびピアノロールが残されており、現在もCDで入手できるようです。

♬ 生地であるノルウェーの旧首都ベルゲンの自然と海をこよなく愛していました。死後に火葬され、遺言によりトロールハウゲンの住居の下にある湖を望む岩壁に墓が設けられ、一部の遺灰は湖に撒かれました。

♬ なお、作品番号の付されていない習作である交響曲は、同じノルウェーの作曲家ヨハン・スヴェンセンの交響曲を聴いて封印したというエピソードがあります。

♬ グリーグは終世、手のひらに乗るぐらいの小さな蛙の置物や子豚のぬいぐるみを大切にし、寝る時も一緒だったらしい。演奏会の時は、あがらないように、ポケットの中で蛙の置物をそっと握りしめたそうです。なお、この蛙の置物と子豚のぬいぐるみはグリーグの家(現在のエドヴァルド・グリーグ博物館)に展示されています。

♬ グリーグはピアノのために数多くの小品を作曲しており、「北欧のショパン」と呼ばれることがあります。また、ピアノとヴァイオリンのために3曲のソナタを書いています。

♬ 数あるグリーグの作品の中で、ヘンリク・イプセンの戯曲『ペール・ギュント』への付随音楽と、ピアノ協奏曲イ短調が日本において最も有名な作品です。

 ピアノ協奏曲は「悲劇」をイメージさせるBGMとして、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」やバッハの「トッカータとフーガ ニ短調」などと共によく利用され、作曲家や曲名がわからなくても曲を聴けば誰でも聴いたことがあるという代表曲です。

 しかしグリーグの本領は、『抒情小曲集』と多数の歌曲に代表される小品に遺憾なく発揮されています。ピアノ曲や歌曲を管弦楽や弦楽合奏に編曲した作品も数多くあります。

♪グリークが生まれた時の世界は?

♬ アンデルセンが「みにくいアヒルの子」を出版

♪ 古関 裕而(こせき ゆうじ) 1909.8.11〈明治42年)~1989.8.18〈平成元年〉

 本名は古關 勇治(読み同じ)。妻は声楽家で詩人の古関金子。

  2020年春から、NHK連続テレビ小説として、古関をモデルとした『エール』が、窪田正孝の主演で放送されました。 気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されています。

 生涯で5千に及ぶ曲を作曲したとされ、また、楽器を一切使わずに頭の中だけで作曲を行ったといわれています。

 1929年にチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて、最年少で国際的コンクールの入選を果たしています。それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出し、クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの流行歌・歌謡曲や映画音楽、軍歌の作曲を手掛け、音丸の「船頭可愛や」、「露営の歌」、伊藤久男の「暁に祈る」、霧島昇・波平暁男の「若鷲の歌」などを発表しています。

 戦後は、「とんがり帽子」や、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」、藤山一郎の「長崎の鐘」、伊藤久男の「イヨマンテの夜」、織井茂子の「君の名は」、岡本敦郎の「高原列車は行く」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出しました。

 他方で、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、名城大学応援歌「真澄の空に」、三重県立四日市高等学校応援歌「希望の門」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの球団歌「大阪(阪神)タイガースの歌(六甲おろし)」、読売ジャイアンツの球団歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、中日ドラゴンズの初代球団歌「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」、東京五輪の「オリンピック・マーチ」、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手掛け、和製スーザと呼ばれました。

 また母校である福島商業高等学校の校歌“若きこころ”、大阪府守口市歌(作詞:安西冬衛)なども作曲しています。

♬ 1977年、「栄冠は君に輝く」制定30周年を記念して夏の甲子園の開会式に招待されました。大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したそうです。また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来ました。

 ♬ 1979年には最初の福島市名誉市民に選ばれ、同地には1988年11月12日に「福島市古関裕而記念館」も建てられました。しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来ませんでした。

♬ 傘寿の誕生日を迎えて1週間足らずの1989年(平成元年)8月18日午後9時30分、古関は脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で没した(享年80歳)。古関の没後、国民栄誉賞の授与が遺族に打診されましたが古関の遺族はこれを辞退。その理由について、古関の長男は「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったようです。

♬ 2009年4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用。在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れています。 同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の福島駅東口駅前広場に設置。制作・施工費は約1500万円。30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっています。

♬ 古関裕而の子孫には、息子の古関正裕さんがいて、「喜多三」というユニットで音楽活動しています。

♪ コレッリ 1653.2.17(承応2年)~1713.1.8(正徳3年)

  アルカンジェロ・コレッリはイタリアの作曲家。ヴァイオリニスト。姓はコレルリ、コレリのようにも書かれる。 ヴィヴァルディより25年、大バッハやヘンデルより32年年長にあたる。合奏協奏曲、トリオソナタ、ヴァイオリンソナタで知られています。

 コレッリはフジニャーノ(現在のラヴェンナ県内)の生まれ。彼の前半生については全く知られていません。コレッリの家系についてはあまり多くのことは知られていないが、善にもつよく悪にもつよい個性的な血族であったようである。コレッリが生まれる20年前、一族のルドルフは町の暴動の首謀者になったかどで処刑されたが、同じ一族から僧侶、法律家、医学者、詩人などを輩出しています。

♬ 彼はいかなる教育で育ったのかも不明です。有名な教皇の礼拝堂付き歌手であったマッテオ・シモネッリが彼に作曲を教えています。

♬ コレッリ最初の大きな成功は19歳のときにパリで得たもので、これによって彼はヨーロッパでの評判を得ています。

♬ コレッリが59歳で亡くなったとき、彼は12万マルクもの大金とブリューゲルやプーサンなど貴重な絵画のコレクション(136枚)とチェンバロ1、ヴァイオリン2、チェロ1、コントラバス1を有しており、楽しみといえば贅沢をすることのみでした。彼は自分の後援者と召使、友人に遺産を譲りましたが、友人は寛大にもその財産をコレッリの親類に返還しています。コレッリはローマのパンテオンに埋葬されました。

♬ コレッリによって生み出され、その弟子たちによって守られてきた演奏形式はヴァイオリン演奏の発展の中心となる重要性をもっていましたが、コレッリは自身の楽器演奏能力のうち、ほんの限定された一部しか用いませんでした。 しかしながら、コレッリの器楽の作曲は室内楽の歴史に一新紀元を画し、彼の影響は自分の国の中に留まりませんでした。

♬ ヨハン・ゼバスティアン・バッハはコレッリの作品を研究し、コレッリの作品3(1689年)の主題に基づきオルガンのためのフーガBWV.579を作曲。またコレッリは、アントニオ・ヴィヴァルディに最も影響を与えた人物でもある。ローマの音楽界は多くをコレッリに負っています。彼は貴族社会の最上位に受け入れられ、長期にわたってオットボーニ枢機卿の邸宅で行われる高名な月曜演奏会を主催していました。

♬ 大バッハやヴィヴァルディは死後パトロンからの受けも消え失せ急速に忘れられたが、コレッリだけはパトロンの庇護もあった。作品番号の記された作品はヴァイオリンの教育の現場で使われ続け、新古典主義時代にはバッハやヴィヴァルディよりもその影響が広範だったと考えられています。彼の痕跡はセルゲイ・ラフマニノフの「コレッリの主題による変奏曲」、八村義夫の「ラ・フォリア」にも表れています。

♬ 西洋では、コレッリの合奏協奏曲がしばしば人気であり、たとえば《クリスマス協奏曲》作品6-8の一部が映画「マスター・アンド・コマンダー」のサウンドトラックとして利用されています。また、小説『コレリ大尉のマンドリン』にもしばしばコレッリのことが話題にされている。

♬ コレッリの全作品はCDでも12枚程度と極めて少なく、多くの作品を破棄したと考えられていますが、事の真相は不明のままです。最有力説は「パトロンが作品の推敲を許し、納得がいくまで書き直しできる環境を与えた」とされていますが、彼の書式の密度の高さを考えるとありえない話ではありません。

♪アルカンジェロ・コレッリが生まれた時の世界は?

♬ 浄瑠璃作家の近松門左衛門は同じ年生まれ。

♬ ドイツの作曲家、ヨハン・パッヘルベルも同じ歳

作曲家
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音楽のおはなし ~ライムさんの知得音楽~

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