た行・な行の作曲家

楽譜02 作曲家
楽譜02

目次

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♪ 瀧 廉太郎(たき れんたろう) 1879.8.24(明治12年)~1903.6.29(明治36年)   

 明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人です。 一般的には「瀧」は「滝」と表記されることも多いですね。 15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学。1898年(明治31年)に本科を卒業し、研究科に進みます。明治時代の前半に多くの翻訳唱歌ができましたが、日本語訳詞を“無理にはめこんだ”ぎこちない歌が多く、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていました。

♬ 彼の代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載されました。また、人気の高い曲のひとつである「花」は1900年(明治33年)8月に作曲された4曲からなる組曲『四季』の第1曲です。「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこ」などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られていますが、これらは1900年(明治33年)に編纂された幼稚園唱歌に収められていました。

♬ 彼の音楽の特徴は日本の美しい四季折々の情景や、歴史を誰もがすぐにイメージ出来て親しみやすいところがポイントです。と、いうのも明治に流行っていた音楽は、西洋で作られた曲に無理やり日本語を当てはめた不自然な歌が多く、国民の多くが日本らしい音楽を求めた時代でした。その国民感情に答えたのが、廉太郎のリズム、そしてメロディだったのです。

♬ 1901年(明治34年)5月18日にドイツに留学しますが、わずか5か月後の11月に肺結核を発病し、現地の病院で入院治療するも病状は改善せず帰国。1903年(明治36年)に大分市(現:府内町)の自宅で死去。(満24歳)。

♬ 結核に冒されていたことから死後多数の作品が焼却されたといいます。作曲数が多かったと考える人もいるようですが、現在はっきりとその存在が確認されている作曲作品は34曲と決して多くはありません。

♪こんなところで使われています

♬ 「荒城の月」は、ベルギーの教会で讃美歌になっています。

♬ 「荒城の月」は九州旅客鉄道の豊後竹田駅、「箱根八里」は、箱根登山鉄道等に、「花」は、東京メトロ銀座線浅草駅のご当地メロディーとして使用されています。

♪滝廉太郎が生まれた時の世界は?

♬ 瀧が生まれた年に琉球藩が沖縄県になり、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が発表されています。

♪ 武満 徹(たけみつ とおる) 1930.10.8(昭和5年) ~ 1996.2.20(平成8年) 

♬ 昭和5年東京都文京区生まれの武満は、ほとんど独学で音楽を学んでいます。子供のころは叔母の影響から筝への関心が高くクラシック音楽には興味を示しませんでした。

♬ 終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接しています。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事しますが、ほとんど独学でした。その後若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた『ノヴェンバー・ステップス』によって、日本を代表する現代音楽家となり、前衛的な音楽活動を展開していきました。

♬ 1960年代には『切腹』『不良少年』『砂の女』『他人の顔』などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ています。大河ドラマ『源義経』の音楽において邦楽器はオーケストラと組み合わされていて、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになりました。その最初の作品である『エクリプス』(1966年)はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられました。そして同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)です。この作品を契機として武満は日本を代表する作曲家になりました。

♬ デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたといいます。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っていますが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたといっています。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は、武満と面識はなかったにもかかわらず、妻のピアノをプレゼントしています。

♬ 武満がギター用にアレンジした「ギターのための12の歌」は、若手ギタリストの教典となっています。

♬ また、「〇と△の歌」や「死んだ男の残したものは」などポピュラー音楽にも多くの作品を残しています。

♪武満徹が生まれた時の世界は?

♬ 武満が生まれた翌年に満州事変が起こり、国内では東京飛行場(現羽田空港)が開港しています。

♪ 團 伊玖磨(だん いくま)1924.4.7(大正13年)~2001.5.17(平成13年)

 團 伊玖磨は、日本の作曲家、エッセイスト。日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人。

 作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルの作曲を手がけています。 代表作に歌劇「夕鶴」、ラジオ体操第2、童謡「おつかいありさん」「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「カタツムリ(文部省唱歌)」、吹奏楽では「祝典行進曲」(1959)などがあります。

 1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)作曲部に入学。学校では下総皖一に和声学と対位法、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学び、学外では山田耕筰に指導を受けています。

 20歳になった1944年(昭和19年)、音楽学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。軍楽隊ではバスドラムを担当し、芥川也寸志とともに編曲も担当。 翌年には復員して東京音楽学校を卒業し、諸井三郎に対位法、楽曲分析を学ぶ。歌曲集『六つの子供の歌』、管弦楽付き独唱曲二つの抒情詩『村の歌』『小諸なる古城のほとり』を作曲。

♬ 伊玖磨が12歳の時、作曲を志す息子の将来を案じた父伊能が伊玖磨を伴い山田耕筰を訪れ、耕筰に作曲の道が険しいことを説いてもらって断念させようとした。ところが、耕筰は、「やり給え、そして、やるからには、最も正統的な勉強を積んで、最も本格的にやり給え」と激励した。このことで、伊玖磨は作曲の道で生きていく決意を固めた。また、生涯耕筰を師と仰ぐことになった。

♬ たびたび訪中したが、團という字に中国語で卑猥な意味があるため、北京では「檀か段に直してください。團では困る」「あなたの名刺は、女の人には見せられません」と言われた。中国で野間宏の『真空地帯』が映画化された際にも、「音楽 段伊玖磨」と直された。

♬ 1963年に八丈島に仕事場を建て、しばしば作曲のために長期滞在したが、そこでの趣味は京野菜の栽培。テレビでのインタビューでは「京野菜が栽培できる南限を探っている」と応えた

♬ 自身作曲の童謡『ぞうさん』が低俗な歌詞をもって歌わされていたことに腹を立てていた ようです。

♬ 伊玖磨の家系には三菱財閥総帥の團伊琢磨、住友財閥の住友友成、セイコー創業者の服部金太郎、更にブリヂストン創業者の石橋幹一郎、元総理大臣の鳩山由紀夫と、とんでもない人たちがいます。そして「代々同じ職業についてはいけない」という家訓があるそうです。

♪團伊玖磨が生まれた時の世界は?

♬ 同じ年にジャズトロンボーン奏者のJ・J・ジョンソン(1.22)と映画音楽のヘンリー・マンシーニ(4.16)がいます。

♬ 誕生前年に関東大震災が発生しています。

♬ 誕生翌年に三島由紀夫(1.14)や芥川也寸志(7.12)が生まれています。

♪ チャイコフスキー 1840.5.7(天保11年)~1893.11.6(明治26年)

 多くの人が大好きな「白鳥の湖」、「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」といえば有名な三大バレー音楽ですね。メランコリックでリズム使いが上手かったピョートル・チャイコフスキーはバレー音楽以外にも交響曲を6曲、その他にもピアノ曲や多くの管弦楽曲などを作曲しています。

♬ チャイコフスキーの繊細な心はあらゆる弱いものに向けられていました。孤児や可哀想な動植物、同性愛などへも。彼らに理解を寄せて共に時間を過ごす事もあったようで、その弱いものへの深い愛情と共感について日記や手紙において熱烈な表現を使ったために、様々な憶測を呼んでいます。(多くの伝記作家達がチャイコフスキーは同性愛者であったとしています。)

♬ そして、チャイコフスキーが急死した原因は主にコレラによるとする説(発病の原因として、生水を飲んだことが理由)が定説となっています。 非倫理的な行為(年下の男に執着)から皇帝に自殺を強要されたのではないかとする説も有力視されました。真相は闇の中です。

♬ 没後に命名された「チャイコフスキー」という名のバラがあります。

♬ 私がチャイコフスキー作品の中で好きな作品の一曲が、序曲『1812年』です。この曲は1880年に作曲した演奏会用序曲で、タイトルの「1812年」はナポレオンがロシア遠征を行った年です。チャイコフスキー自身は決して精魂を込めて書き上げた作品とは受け止めてはいなかったようですが、歴史的事件を通俗的に描くという内容のわかりやすさによって、人々に大いに喜ばれる作品となっています。そして、本物の大砲を使った(使う?)曲として有名です。

♬ 私の市で吹奏楽連盟が主催する「吹奏楽祭」の合同演奏でチャイコフスキーの「交響曲第4番終楽章」を指揮したことがあります。中学生もあの速いテンポで滝のように流れるフレーズを一生懸命に吹いていました。感動モノでした。

♪チャイコフスキーの容姿、性格

 細身で長身。若白髪、碧い眼、面長、頬・顎鬚。エレガントでスタイリストですが、平凡な小心者だったようです。

♪チャイコフスキーの悩み

 優秀な人物でも悩みはあるものです。チャイコフスキーは指揮をすることがとても苦手でした。

 オーケストラを目の前にすると体がすくんでしまい、がたがた震え、そのために指揮の最中に自分の頭が首からもげてしまうのではないかという妄想に駆られ、左手を顎の下にあてて、もげないように支える動作を実際に何度も繰り返したそうです。これではオーケストラも指揮者本人も演奏に集中することはできません。チャイコフスキーは自作の演奏を求められることもしばしばあったようですが。このクセは生涯治ることはなかったということです。優秀な人でも自分の力ではどうすることもできない悩みが一つぐらいはあるものですね!?

♪チャイコフスキーが生まれた時の世界は?

♬ フランスの画家モネと彫刻家ロダンも同じ年です。

♬ チャイコフスキーが生まれた年に遠山景元(遠山の金さん)が江戸北町奉行になっています。

♬ チャイコフスキーが生まれた翌年にチェコで角砂糖が誕生しています。

♪ デューク・エリントン 1899.4.29(明治32年)~1974.5.24(昭和49年)

  エドワード・ケネディ・デューク・エリントンは、アメリカ合衆国 ワシントンD.C.出身のジャズの作曲家、ピアノ奏者、オーケストラリーダー。20世紀最大のジャズ・ポピュラー界の音楽家と言われています。

 小学生の頃からピアノを習い始め、ハイスクールでは校内のパーティでピアニストとして活躍していた。同時期に音楽教師から高度な作曲理論を学び(「私の音楽に対する勉強は、GフラットとFシャープの違いを学んだことからはじまった」という言葉は有名)、1916年にピアニストとしてデビュー。

 その後ニューヨークに進出し、1927年にニューヨーク市マンハッタン区ハーレムにて高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」を経営していたアイルランド系ギャングスターのオウニー・マドゥンが、友人のユダヤ系ギャングスターのブー・ブー・ホフに頼み、デューク・エリントンとバンド契約に至る。 1930年代から第二次世界大戦後にかけて『A列車で行こう』(作曲はビリー・ストレイホーン)など、音楽史に残る様々な作品を世に出した。

 ♬ 「デューク(公爵)」というニックネームは、子供の頃から自然な優雅さ、身嗜みを身に付けきちんとした服装をしていたことから、親友エドガー・マッケントリーによって付けられた。

♬ 1964年に新潟市で新潟地震が発生した際に日本公演を行っていた。地震の被害を知ったエリントンは次に予定されていたハワイ公演の予定をとり消して東京厚生年金会館にて震災に対する募金コンサートを開催。その後コンサートの純益である96万円が新潟市に贈られ、再来日した1966年には新潟市より国際親善名誉市民の称号が贈られました。

♬ エリントンが亡くなった現在でも彼が立ち上げたオーケストラは存続しており、2018年にも日本公演をしています。

♬ 2009年、コロンビア特別区から、エリントンとピアノをあしらった25セント記念硬貨が発行されている。アフリカ系アメリカ人が硬貨に描かれるのはこれがはじめて

♪デューク・エリントンが生まれた時の世界は?

♬ 同じ年にフランスの作曲家プーランクが(1.7)、日本では川端康成(6.1)が生まれています。

♬ デューク・エリントンが生まれる前年にエジソンが映画を発明しています。 そして、ジョージ・ガーシュインと近衛秀麿は一歳年長。

♪ テレマン 1681.3.14(延宝9年)~1767.6.25(明和4年)

 ゲオルク・フィリップ・テレマンは、後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家で、40歳以降は北ドイツのハンブルクで活躍。18世紀前半のヨーロッパにおいては随一と言われる人気と名声を誇り、自身も オルガン、ハープシコード、リコーダー、リュートなど多くの楽器を演奏することができ、特にリコーダーについては高い技術を有する名人でした。

♫ 最晩年には「53平均律の使い方」という文章を発表しています。そこには「トリプル・フラット」や「トリプル・シャープ」といった新しい臨時記号の概念が記されているのです。

♫ 日本ではテレマンへの注目も高く、日本テレマン協会が1969年に発足(当時は大阪テレマン協会)して現在に至っています。  

♫ 私はテレマン協会が年末に開催されている「第九とクリスマスのコンサート」がお得感満載なので楽しみです。(第九は当時の編成、テンポで演奏されているようです。) 

♪ 交友関係は?

 同時代の作曲家であったヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人で、頻繁に手紙のやり取りをしていたほか、バッハとも親密な交友関係にあり、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなっています。

 また、1750年にバッハが死去した時には、バッハの業績を最大限に称える追悼の言葉を送っています。 彼は86歳と長生きだったため、晩年はハイドンの青年時代などと重なり、高齢でも創作意欲が衰えませんでした。後期バロック様式から古典派様式への橋渡しをした作曲家でもあります。

♪ 作品は?

 彼は冗談のセンスも高く、「老人たち」という作品名で前世代をこき下ろすという感性や、結婚生活の不毛についてのオペラ作品や、学校の先生のプライドを皮肉った作品もあります。しかし、その作風があまりにも当時のヨーロッパ社会の流行に迎合し過ぎていたためか、本人の死後は急速に評価が下がり、知名度はバッハと逆転しています。モダン楽器による作品の演奏も途絶えることはなかったのですが、彼の全作品が隈なく古楽器演奏の評価の対象になったのは少なくとも1990年代以降のことです。

♪ ギネス記録保持者!!

 テレマンは86年の長い生涯で膨大な数の曲を作ったことで知られ、『ギネス世界記録』においても、クラシック音楽の分野で最も多くの曲を作った作曲家として、正式に認定されているようです。

 ドイツ語版ウィキペディアによるとテレマンの曲は現在3600曲以上が確認されていますが、既に楽譜の失われている曲や未発見の曲も多いと見られ、実際の総作品数は少なくとも4000曲を超えるものと考えられています。

 ベーレンライター社からテレマン全集が出版され続けているものの、同時期に始まった新バッハ全集の編集が20世紀に終わって現在は補遺版の刊行が行われているのに比べ、テレマンの作品群は21世紀に入っても整理し切れていないばかりか、21世紀中の全作品の刊行も難しいと見られているようです。

 アントニオ・ヴィヴァルディの作品数800曲以上やヘンデルの作品数600曲以上、バッハの作品数1100曲以上などと比較しても群を抜いています。

♪テレマンが生まれた時の世界は?

♬ 協奏曲「四季」の作曲者ヴィヴァルディは三歳年長。

♬ テレマン誕生の翌年に井原西鶴が「好色一代男」を発表しています。

♪ ドヴォルザーク 1841.9.8(天保12年)~1904.5.1(明治37年)

 チェコ生まれのアントニン・ドヴォルザークはボヘミア地方で典型的な貧乏子だくさんの一家の長男として生まれています。

 彼の父親はツィター、伯父もトランペットを吹く家系でしたが、宿屋や肉屋を経営する家系でした。ドヴォルザーク自身も小学校でヴァイオリンを学び始めると天賦の才能を見せ始めます。しかし、両親は経済的にも余裕がなかったことから彼を音楽家にするつもりはありませんでした。

 結婚後も経済的な生活苦が続きますがブラームスに才能を見いだされ、34歳になりようやく金銭的な悩みから解放され、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となりました。

 スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれ、その後アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献しています。

♬ 鉄道は19世紀半ばごろになって世界各地にお目見えした乗り物ですが、それ以来多くの人々に愛され、親しまれて現在まで発展しています。 ドヴォルザークもその魅力にとりつかれた一人でした。

 彼はプラハのフランツ=ヨゼフという駅にほとんど毎日出かけ、列車の時刻表を全部覚えたり、機関士と話をするほどでした。また、弟子が機関車に乗った時には、どんな種類の列車に乗ったのか、その機関車の名称や型式番号は何番だったかなどをしつこく聞き出したそうです。

 ところで、彼は1892年から1895年の間アメリカのニューヨークに創設されたナショナル音楽院の院長として招かれたのですが、そこでの生活で悩んだことがありました。それは、近くに鉄道が走っていなかったということでした。でも、彼は、そこでの滞在の間、その代わりとして、波止場に行って「船」を見ることで,自分の気持ちを満足させていたということです。

♬ 彼は毎日同じ列車の音を聞くのを楽しみにしていましたが、ある日、その音がいつもと微妙に違うことに気が付き、そのことを彼が車掌に伝え、列車を点検したところ不具合が発見され。結果的に列車事故から人々を救ったという伝説のような逸話も残っています。

♬ アメリカ赴任中、望郷の気持ちから書き上げた「新世界交響曲」の終楽章冒頭は機関車が動き出す様子を描いたものだとか……

♪ドヴォルザークが生まれた時の世界は?

♬ フランス印象派の画家ルノワールは同じ年の生まれです。

♬ 誕生の翌年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が設立されています。

♪ ドビュッシー 1862.8.22(文久2年)~1918.3.25(大正7年)

  クロード・ドビュッシーは両親共にフランス人でフランス生まれの生粋のフランス人。 伯母の家で絵画を始め様々な芸術に触れ、ピアノの手ほどきも伯母から受けていたようです。

♬ 歴史に残る大作曲家の八割はドイツ系で、もしもドビュッシーがいなかったらドイツ系の作曲家の割合は九割以上になってしまうだろうとも云われています。

 自由な和声法などを用いて独自の作曲を実行し、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家でした。ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から、「印象主義音楽(印象派)」と称されることもあります。しかし、本人は印象主義音楽という概念に対して否定的であったようです。

♬ ショパンがピアノを「歌う楽器」として扱ったに対し、ドビュッシーはまるで直接弦を指で弾き、詩を朗読するようにピアノを弾いたと云います。

♬ 容姿は身長低めで太り気味、垂れた瞼、青白く憂鬱そうな顔つき、躍動感なく病的な感じ、骨腫のため額の骨が飛び出ていたそうです。

♬ 人間としてはどうだったかと云うと性格は気難しく、内向的かつ非社交的だったようです。音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動(不平不満や文句)をしていたため、担当教師らを困らせていました。また、妻を含め愛した女性を二人もピストル自殺未遂に追い込むなど女性関係においてのトラブルも絶えませんでした。

♬ 「もし音楽家にならなかったら?」の問いに「船乗り」と答えるほど海(水)に対する憧れは強く、部屋には葛飾北斎の「富嶽三十六景の波」が飾ってあったと云います。

♬ 同じ印象派のモーリス・ラヴェルは、父親がドビュッシーとかつて交友関係にありました。二人はお互いの作品に影響を受けています。

♬ チャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴しています。しかし、まだ13歳だった夫人の娘にプロポーズしたためお払い箱になっています。

♬ ドビュッシーはほとんど学校には行かず、そのため晩年になっても文字の綴りや文法が不確かなままだったそうです。

♬ 1918年初旬、直腸癌により床から離れなくなり、3月25日に息を引き取ります。55歳。妻エンマは16年後の1934年に世を去っています。

♪ドビュッシーが生まれた時の世界は?

♬ リンカーンが「奴隷解放宣言」をし、ビクトル・ユゴーが「レ・ミゼラブル」発表しています。日本では寺田屋事件が起こっています。

♪ 冨田 勲、(とみた いさお)1932.4.22(昭和7年)~2016.5.5(平成28年) 

 冨田 勲といえば「惑星」ではロケットの発射音から始まりそれぞれの星の音楽を幻想的に表現した「惑星」。雛と猫の追いかけ合いなど、映像が浮かびあがる「展覧会の絵」。これらのシンセサイザー作品に衝撃を受けた記憶があります。

 冨田 勲は、日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー・アーティスト(シンセサイザー音楽作家、シンセサイザー奏者)。

 医師の冨田清を父として東京府豊多摩郡(現:東京都杉並区)に誕生。

 1950年代、慶應義塾大学文学部在学中に作曲家として活動を始め、NHKや民放のラジオ番組、テレビ番組、映画、虫プロダクション関連のアニメーション 等々の膨大な数の音楽を担当した。これらの作品は後年のシンセサイザー・サウンドとの連続性は少なく、むしろ親しみやすいオリジナルメロディ、時にジャズ調もまじえた華麗なオーケストレーションなどで製作側からの信頼が厚かった。中でも大河ドラマなどのNHK番組、虫プロアニメの主題曲、BGM等は、繰り返しレコードやCDが発売され、今なお愛され続けています。

 やがて古典的な「アコースティック楽器のオーケストラ」の音には飽きたらなくなり、当時新たに登場してきた電子機器と古典的楽器の音を融合させるなど、様々な音楽の可能性を追求するようになります。さらにその後1969年に電子楽器モーグ・シンセサイザーに出会ったことが転機となり、これ以降は古典的名曲を現代的な解釈を加えて編曲し、自宅スタジオでシンセサイザーを演奏・多重録音して作品を制作し世に発表することが活動の中心となった。その音楽や音響効果は「TOMITA SOUND トミタ・サウンド」と呼ばれ、「Isao TOMITA イサオ・トミタ」の名は広く世界に知られています。

 1980~1990年代には、シンセサイザー音楽のスタジオ内での制作やアルバム発表にとどまらず、「サウンドクラウド(音の雲)」と銘打って、トミタ・サウンドを屋外で大観衆に向かって立体的に聞かせる壮大なライブ・イベントをヨーロッパ、米国、日本、オーストラリアなどで開催し、世界のトミタ・ファンを熱狂させました。

  ビルボード全米クラシック(部門)チャート1位、NARM最優秀クラシカルレコード(賞)、日本レコード大賞、日本アカデミー優秀音楽賞 等々 受賞多数。

♬ 1969年に、大阪万博の東芝IHIのパビリオンの音楽を録音するため、大阪に滞在した時に訪れた輸入レコード店で、モーグ・シンセサイザー (MOOG III-C) を全面的に用いて作成された『スイッチト・オン・バッハ(Switched-On Bach)』と出会い、これこそ求めているものだと直感。その後の活動に繋がっていきました。

♬ 彼の作品にはNHKの「新日本紀行(新旧のテーマとも)」、大河ドラマ「勝海舟」「徳川家康」、テレビドラマでも「名犬ラッシー」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」など私達になじみの多い数多くの作品を提供しています。

♪冨田勲が生まれた時の世界は?

♬ 同じ年にジョン・ウイリアムス(2.8)、小林亜星(8.11)、グレン・グールド(9.25)、山本直純(12.16)が生まれています。

♬ ローラ・インガルス・ワインダーが「大きな森の小さな家」を発表。

♪ 中田喜直(なかた よしなお)  1923.8.1(大正12年)~2000.5.3(平成12年)

  東京府豊多摩郡(後の東京市、現在の東京都渋谷区)出身。日本の職業作曲家の一人。父は「早春賦」で知られる作曲家の中田章。喜直は三男、兄は作曲家・ファゴット奏者の中田一次である。父は物心ついた頃にはすでに病床に伏しており、音楽については兄の一次から教わったという。

 1935年には、映画『別れの曲』の影響でショパンに心酔しピアニストを志望するようになり、その後ジャズピアニスト目指しましたが、手が小さいことから断念。

 終戦後の1946年には作曲家グループ「新声会」に入会。歌曲の伴奏をつとめるかたわら、作曲家としての活動を本格的にスタート。NHK「ラジオ歌謡」や「歌のおばさん」、「えり子とともに」などラジオ番組にも積極的にかかわり、これらの番組において「夏の思い出」や「かわいいかくれんぼ」「雪の降るまちを」などを生み出している。2000年5月3日に亡くなるまでに書かれた作品は3000近くといわれていますが、その全貌はまだ明らかになっていません。

♬ 中田には社会運動家・提唱者としての側面もありました。とりわけ嫌煙運動家としての顔が知られており、1980年には渡辺文学と『嫌煙の時代』(波書房)を出版。

♬ 校歌や社歌・自治体のための歌も沢山提供しています。 大阪でも大阪教育大学附属天王寺小学校、茨木市立大池小学校、四条畷市四条畷西中学校の校歌を作曲しています。 ♬ 代表的な作品 夏の思い出、雪の降るまちを、君よ八月に熱くなれ、かわいいかくれんぼ、あひるの行列、めだかの学校、ちいさい秋みつけた などがあります。

♬ 自分の手が小さく、ピアノを弾くのに苦労したという中田は、ピアノを習う子供たちのために鍵盤の幅を細くすることを提唱した。提案だけでなく実際に作らせ、自身の作曲に使用していました。(ヴァイオリンやチェロなどは子どもサイズから練習できるのにピアノは幼少期から大人サイズで始めるのはおかしいと考えていた)

♪中田喜直が生まれた時の世界は?

♬ 同じ年に独の指揮者ヴォルフガング・サバリッシュ(8/26)と作曲家の岩井直溥(10/2)が生まれています。

♬ 同じ年に関東大震災(9/1)が発生しています。

♬ 同じ年にウォルト・ディズニー・カンパニーが創立されています。

作曲家
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