は行の作曲家

ヒューゴアルヴェーン 作曲家
ヒューゴアルヴェーン

目次

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♪ ハイドン 1732.3.31(享保17年)~1809.5.31(文化6年)

  フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、一般的には陽気で、ユーモアのセンスに富んだ、とても愛想のよい作曲家として知られています。それは、彼の作品につけられている数々の愛称からも容易に想像することができます。交響曲を例にあげると、動物の鳴き声にある部分が似ていることから付けられた「熊(第82番)」や「牝鶏(第83番)」、時計の振り子のような正確なリズムを刻む「時計(第101番)」等々、本当にハイドンの作品ならではの親しみやすい愛称が付けられています。

♬ ハイドンもバッハと同じように変わった曲を書いて(作って)います。  「ザリガニのカノン」という曲です。これは三人で歌うコーラス曲ですが、最初はそのまま、次は楽譜を逆さま、次はそのまま裏返し、次は裏返しのまま逆さまにして歌うことができる曲なのです。これは遊びの作品だということですが、何故こんなことができるのか???これらの作曲家の幾何学・数学を基にした音符の組み合わせは天才的といわずに何といえばいいのでしょうか!

♬ ところで皆さんは食後などに優雅で綺麗なメロディーを聞けば睡魔におそわれてきますよね?! ハイドンは昼食後のコンサートで、貴族たちが途中で寝てしまい、作品を最後まできいてもらえないことが多いことから、食後のコンサートで聴衆が気持ちよくなるような旋律を続け、ウトウトしてきた聴衆を突然のティンパニーの大きな音で目覚めさせる「驚愕(第94番)」という曲を作り聴衆が驚く姿を見て喜んだということです。          …………いたずらっ子?…………

♪ハイドンは少年時代から?

 ハイドンの少年時代はとても美しいボーイ・ソプラノを披露し、8才の時には有名な合唱団の一員になりました。彼は17才まで合唱団に所属していましたが、その間に培った音楽経験は、後の彼の音楽家としての人生に多大な影響を与えたことは想像に難くありません。

♬ ところで、彼が合唱団を退団した、いや正確に言うと、やめさせられたのにはちょっとした理由がありました。ある時、授業に退屈したハイドンは、新しく手に入れたはさみの切れ味を試そうとして、前に座っていた子のお下げ髪をチョキンと切り落としてしまいました。合唱団の先生は、これはとうてい許すことのできないいたずらであるとして、彼を追い出してしまったのです。その後、彼は幾多の苦難を乗り越えながら「パパ ハイドン」と呼ばれる大作曲家にまで成長していったのでした。

♪ハイドンの功績

ハイドンは古典派音楽を確立した人です。他の古典派の重要人物であり後輩に当たるのがモーツァルト(1756-91)とベートーヴェン(1770-1827)。この二人に重要な影響を与え、この二人から絶大な尊敬を受けています。当時、ハイドンはこの二人より遥かに名声を得ていましたが、死後その人気は逆転してしまったといってもよいでしょう。

♪ハイドンが生まれた時の世界は?

♬ 日本では享保の大飢饉が起こり、アメリカでは初代大統領ジョージ・ワシントンが誕生。

♪ バッハ 1685.3.31(貞享2年)~1750.7.28(寛延3年)

 ヨハン・セバスティアン・バッハの両親はドイツ人で、自身は生涯ドイツから出ることはありませんでした。 芸術家は自分の好まない仕事は引き受けないかもしれませんが、職人気質のバッハにとって自分に与えられた仕事を全うすることが第一でした。(子沢山だったために生活を支えるのに仕事を選べなかったのかもしれませんが……)  現在でこそバッハは偉大な作曲家として名を残していますが、当時は有能な音楽家として周囲の地域では認められていたものの決してメジャーな存在ではありませんでした。

♬ 2020年はバッハ没後270年になります。

♪バッハの容姿、性格

 突き出た下顎と高く大きな鼻、秀でた額、くぼんだ鋭い目で身長180㎝と大柄だったバッハ。性格は頑固で職人気質、正直者で勉強家、人情家で理性的だったようです。

♪バッハの名前

人の名前は田中などのように地名や地形などからとられたものが多いですね。 偉大なる作曲家。クラシック音楽の基礎を確立したと云われる「バッハ」を翻訳すると「小川」という意味になります。音楽の父、西洋音楽の源流と云われているバッハの名前が宇宙や海などではなく、小川とは面白いものですね。 でも、近年では「パンを焼く」という意味の動詞はかつてbachenと綴られていて、「バッハ」はおそらく「パン屋」の意味だろうと考えられているようです。

♪バッハの私生活

♬ ルターの著作物をはじめとする宗教書をよく読み、酒や煙草、そして当時流行り始めたコーヒーなどの嗜好品を好んだようです。(宗教音楽家バッハには珍しい「コーヒーカンタータ」という作品があります。)

♬ モーツアルトやベルリオーズのように恋多い人ではなく、信仰心の厚いバッハの人生には浮いた話はありません。結婚は二度。合計20人の子どもが生まれましたが10人は幼くして亡くなっています(衛生上の問題ですね)。

♬ 宗教音楽家として有名ですが、バッハが音楽の手ほどきしたゴルトベルクが不眠症に悩むヘルマン・カール・フォン・カイザーリンク伯爵のために演奏したという逸話から「ゴルトベルク変奏曲」の俗称で知られている曲があります。

♬ 38歳でライプツィヒにて音楽監督に就任以降、教会付属学校の教師として生徒指導、聖歌隊の指導、毎週一曲の作曲とそれを指導する他、各種の式典などの作曲をするなど激務でした。…………まるで企業戦士のようですね。

♪バッハの音符クイズ

♬ バッハの遺作となった「フーガの技法」は未完成に終わっていますが、最後の旋律がB音(シ♭)、A音(ラ)、C音(ド)、H音(シ)と並べて主題としています。続けて読むとバッハになります。この事は最後のページに「このフーガを作曲中BACHの名が対位主題に導入されたところで作曲者が死亡した」と書き入れてあったために分かったのだとか。

♬ その他にもこの作品の16曲目にあたる曲で「鏡像フーガ」という曲があります。この曲は譜面の上部に鏡を置き、そこに映った逆さまの楽譜(バスの声部がソプラノ声部になり、音符も反転している状態)がそれぞれ見事な曲になっているという作品なのです。

♪バッハの生まれた時の世界

 作曲家のおはなし おまけ をご覧ください。

♪ パッヘルベル 1653.9.1(承応2年)~1706.3.9(宝永3年)

  ヨハン・パッヘルベルはバロック時代に活躍したドイツの作曲家です。バロック時代を代表する作曲家として挙げられるのは、バッハやヘンデルなどですが、パッヘルベルは彼らより少し先輩の音楽家です。

♬ パッヘルベルはバッハの父と交流があり、バッハのお兄さんに音楽を教えています。

♬ パッヘルベルはワイン屋の息子としてニュルンベルク(ドイツ)で生まれました。後に音楽家として活躍しますが、若い頃は勉強もよくできたそうです。

♬ コラール前奏曲やフーガを発展させ「パッヘルベル・コラール」と呼ばれる様式を確立し、バッハにも音楽的な影響を与えたと言われています。

♬ オルガン奏者としても名声を得ており、200曲以上の器楽曲を作曲し、あらゆるジャンルの音楽を作曲しています。その中でも評価が高いのがオルガン作品でした。

♬ パッヘルベルの作品は生前から人気が高く、ドイツ中部・南部の多くの作曲家の手本となっています。パッヘルベルの音楽は、技巧的ではなく、大胆な和声法も用いず、旋律的・和声的な明快さを強調した、明快で単純な対位法を好んで用いていました。一方、楽器を組み合わせた多様なアンサンブルの実験も行っていました。                            

♬ ちなみに200曲以上作曲した彼ですが、カノンは生涯の中で1曲しか書かれていません。皆さんが良く耳にするカノンは1680年頃に作曲され「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」の第1曲にあたります。 原曲はカノンとジーグで1組ですが、フーガ風のジーグは演奏機会がほとんどないのが現状です。

♬ 二度結婚しています。

♬ かつての教え子であったヨハン・クリストフ・バッハが1694年10月に結婚した際、バッハ家の人々は10月23日にオールドルフでそれを祝い、音楽を提供するためパッヘルベルら作曲家たちを招待しています。パッヘルベルはおそらくそれに参加したと思われ、もしそうであれば、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(当時9歳)とパッヘルベルが出会った唯一の機会だと思われます。

♪パッヘルベルが生まれた時の世界は?

♬ 浄瑠璃作家の近松門左衛門は同じ年生まれ。

♬ イタリアの作曲家、アルカンジェロ・コレッリも同じ歳

♬ ヴィヴァルディより25年、バッハやヘンデルより32年年長です。

♪ ピアソラ 1921.3.11(大正10年)~1992.7.4(平成4年)  

 アストル・ピアソラはアルゼンチンの作曲家、バンドネオン奏者。タンゴを元にクラシック、ジャズの要素を融合させた独自の演奏形態を産み出しています。

♪生涯

 1921年、アルゼンチンのマル・デル・プラタにイタリア移民三世の子として生まれる。四歳の時に一家でニューヨークに移住し、15歳までを過ごす。この頃既にジャズに親しんでいたが、当初はバンドネオンやタンゴへの興味は薄かったといわれています。 父の開いたレストランでバンドネオン、ハーモニカを演奏していたが、1938年にラジオで先鋭タンゴ「エルビーノ・バルダーロ楽団」に感動して初めてタンゴの音楽性を知る。

 1940年から5年間、アルベルト・ヒナステラに師事して音楽理論を学ぶ。総仕上げとして「ピアノ・ソナタ」のようなアカデミックな作品も残した。

 1954年、タンゴに限界を感じたピアソラはクラシックの作曲家を目指して渡仏し、パリでナディア・ブーランジェに師事する。当初自分のタンゴ奏者の経歴を隠していたが、ナディアにタンゴこそがピアソラ音楽の原点であることを指摘され、タンゴ革命の可能性に目覚める。

  1959年に父の死に捧げた代表作『アディオス・ノニーノ』を作曲する。翌年帰国後に初演。バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターからなる五重奏団を結成し、以後これがピアソラの標準的グループ構成となる。 1990年パリの自宅で脳溢血により倒れ闘病生活に入る。大統領専用機でアルゼンチンに帰国。

 1992年ブエノスアイレスの病院にて死去。71歳。

♪音楽の特性

 元来タンゴは踊りのための伴奏音楽であり、強いリズム性とセンチメンタルなメロディをもつ展開の分かりやすい楽曲であった。ピアソラはそこにバロックやフーガといったクラシックの構造や、ニューヨーク・ジャズのエッセンスを取り入れることで、強いビートと重厚な音楽構造の上にセンチメンタルなメロディを自由に展開させるという独自の音楽形態を生み出した。これは完全にタンゴの表現を逸脱しており、「踊れないタンゴ」として当初の評判は芳しいものではなかった。

♪ピアソラが生まれた時の世界は?

♬ シェーンベルクが十二音技法を創立

♬ 三菱電機(三菱造船からの分離独立)と大塚製薬工場(大塚グループの源流会社)設立されています。

♬ 土井勝(料理研究家)、アルフレッド・リード(作曲家、指揮者)、盛田昭夫(ソニー創設者)、由利徹(喜劇俳優)、 並木路子(歌手)、宮田輝(NHKアナウンサー・参議院議員)が同年の生まれです。

♪ 久石 譲(ひさいし じょう)1950.12.6(昭和25年)~ 

 昭和25年生まれ長野県中野市出身。4歳の時から鈴木鎮一ヴァイオリン教室でヴァイオリンを習い始め、中学では吹奏楽部に所属しトランペットを担当。この際、演奏よりも部活用の譜面を書いて周囲に聴いてもらえる方が嬉しいと思ったことから作曲家を志すようになります。国立音楽大学作曲科在学中よりコンサートの楽曲提供・プロデュースを行っています。

♬宮崎駿監督作品においては、『風の谷のナウシカ』以降、『風立ちぬ』まで29年間すべての長編アニメーション映画の音楽。また、北野武監督作品においても、『あの夏、いちばん静かな海』から『Dolls』までの7作品の音楽を手掛けています。 ソロ活動も行っており、多数のソロアルバムをリリースしています。これらのアルバムでは、指揮・演奏・プロデュースも手掛け、ジャンルにとらわれない独自のスタイルを確立し、一部の楽曲では、自らボーカルを担当しています。

♬ 1974年にテレビアニメ『はじめ人間ギャートルズ』の音楽を担当(当時は本名である藤沢守の名前で)。これが実質的な商業デビュー作となります。 1975年には日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートのために、数々の映画音楽をオーケストラ用に編曲。1978年からは『ニュー・サウンズ・イン・ブラス』の吹奏楽編曲を長らく手掛けています。

♬ 2009年、音楽を担当した『おくりびと』が、第81回アカデミー賞において日本映画としては初のアカデミー外国語映画賞を受賞。また、第85回箱根駅伝からの新テーマ曲『Runner of the Spirit』を手掛けました。これは自身初の吹奏楽曲。同年、紫綬褒章を受章しています。

♬ 2010年、母校である国立音楽大学の招聘教授に就任しています。

♬ 歌手の麻衣は長女。『風の谷のナウシカ』では当時4歳の麻衣が劇中曲を歌っています。

♪久石譲の名前

♬ 本名、藤澤 守(ふじさわ まもる)。久石譲の名は、大学在学中に友人と話し合った結果、当時活躍していたクインシー・ジョーンズの名前をもじり漢字に当てたものだそうです。

♪久石譲が生まれた時の世界は?

♬ 歌手の ジュディ・オング(1.24)、コメディアンの志村けん(2.20)、俳優の舘ひろし(3.31)、歌手の和田アキ子(4.10)、ミュージシャンのスティーヴィー・ワンダー(5.13)、歌手の細川たかし(6.15)、ジャーナリストの池上彰(8.9)、歌手の八代亜紀(8.29)、女優の市毛良枝(9.6)、俳優の梅沢富美男(11.9)、フォークシンガー、絵本作家のイルカ(12.3)、などが生まれています。

♬ 聖徳太子像の千円紙幣(日本銀行券B千円券)が発行開始。

♬ 久石が生まれる前年に湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞しています。

♬ 翌年、黒澤明監督の「羅生門」がベネチア国際映画界で金獅子賞を受賞。

♪ ビゼー 1838.10.25(天保10年)~1875.6.3(明治8年)

 ジョルジュ・ビゼーは、19世紀フランスの作曲家。代表作に『カルメン』、『アルルの女』、『真珠採り』、『美しきパースの娘(日本では作中のセレナードの旋律が「小さな木の実」に転用され有名)』などがあります。

 父は声楽教師、母はピアニストで、幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群でした。9歳でパリ音楽院に入学しています。 19歳でカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を獲得しています。

 1861年(23歳)にはリストの新作(リストは「この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ」と豪語していた)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけ、リストを驚かせた。この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」といってビゼーを賞賛した。しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしなかった。

 1875年3月にパリのオペラ=コミック座で行われた『カルメン』の初演は、ヒロインが女性労働者だったこともあり失敗に終わっています。ヒロインの声域をそれまでに一般的だったソプラノではなくメゾソプラノに設定したことも新しさの一つでした。 1869年にビゼーは師アレヴィの娘であるジュヌヴィエーヴ・アレヴィと結婚。師は既に1862年に亡くなっていた。ビゼーは『カルメン』初演の約3ヵ月後である1875年6月3日、敗血症のため36歳で死去したが、のちに彼の音楽は世界的に認められるようになった。 ♬ オペラ『カルメン』はドビュッシー、サン=サーンス、チャイコフスキーなどから賞賛され、ニーチェは『カルメン』を20回も観たと記述しています。

♬ 『カルメン』や『アルルの女』、『真珠採り』以外はほとんど知られていません。なおオペラ『美しきパースの娘』の中のセレナードをベースにした『小さな木の実』は、NHKの「みんなのうた」で放送され、音楽の教科書にも採り上げられるなど、日本では特によく親しまれている楽曲です。

♪ビゼーが生まれた時の世界は?

♬ 緒方洪庵が適塾(蘭学)を開く。門下生に福沢諭吉など

♬ 2.14(天保9年1月20日)土佐藩の岡田以蔵(人斬り以蔵)誕生。

♬ 3.11(天保9年2月16日)大隈重信誕生、第8・17代内閣総理大臣・東京専門学校(現、早稲田大学)創立者

♬ 7.8 ツェッペリン誕生、ドイツの軍人・硬式飛行船開発者

♪ フォーレ 1845.5.12(弘化2年)~1924.11.4(大正13年)

 ガブリエル・フォーレはフランス人の両親の元、南フランスで生まれ、パリで亡くなっています。

 フランス音楽の始祖的存在といわれています。 「シシリエンヌ」(シチリアーノ)やチェロ作品の「エレジー」、歌曲「夢のあとに」などシンプルで心優しい作品を書いた作曲家です。

♪フォーレの名字

♬ 「フォーレ」という名字は、南フランスではもともと「ファウレ」と発音し、これは鍛冶屋を意味していたようです。フォーレの曽祖父と祖父は肉屋」でしたが、その名字からすると父方の祖先はどうやら鍛冶屋だったようです。

♪ フォーレは「サロン音楽」の作曲家か?!

 フォーレは、当時のサロンで受け入れられたため、ドビュッシーを初めとして、フォーレの作品を「サロン音楽」と矮小化して受けとめる風潮も現在まで存在しています。とはいえ、それはその高貴さ、崇高さの表れとも考えられ、フォーレの音楽は、とくに中期から晩年にかけてのそれは、規模の小さな作品においても、ただ柔らかく上品で、洗練されているというだけで終わってはいない。ごく自然に流れる音の流れが、実は伝統的なあらゆる手法を駆使した、独自の緻密な構成によっているのです。

♬ 彼の作品の中、大所帯のオペラ「プロメテ」 は彼の生前には話題になっていたものの、上演には400人からなる3つの吹奏楽団と100人の弦楽奏者、18人のハープ奏者、30人のトランペット奏者、200人の合唱団員、50人の踊り子、優秀な歌手を要するため現在ではほとんど上演されることのない作品があります。

♪教育者としてのフォーレ

 フォーレは1896年にマスネの後任としてフランス国立音楽・演劇学校の作曲科教授となっており、その門弟にはモーリス・ラヴェル、ジャン・ロジェ=デュカス、ジョルジェ・エネスクらがいます。 ラヴェルがローマ大賞を落選した、いわゆる「ラヴェル事件」により1905年にはテオドール・デュボワの後任として音楽院院長となり(1920年まで)、音楽院改革を行った結果《ロベスピエール》とあだ名されるようになったが、この時の改革のうち、入学前の生徒の教授との癒着を避けるため、音楽院の外部者に入学審査を行わせたことは、現在でも入学審査に必ず音楽院の外部者が加わっているという形で受け継がれている。このように彼は優れた音楽教育者としても知られています。

♪フォーレの女性関係

 音楽史上最高の『レクイエム』の作曲家としても知られ、教会オルガニストであったことから敬虔なカトリック教徒というイメージが強いのですが、フォーレ自身、必ずしもそうでないことを認めています。

 実際、若いころのフォーレは享楽的な傾向を持ち、1883年に彫刻家エマニュエル・フルミエの娘、マリーと結婚した後も、90年代前半はのちにドビュッシー夫人となったエンマ・バルダックと、後半はイギリスの楽譜出版社の夫人のアディーラ・マディソンと関係を持ち、そして1900年『プロメテ』初演時にアルフォンス・アッセルマン(ハーピスト・作曲家)の娘、マルグリット・アッセルマンと出逢い、そののち彼女を生涯旅行などに付き添わせるといった愛人たちとの交際を続けています。

 なお、フォーレの孫とされるフォーレ・ハラダという日仏混血の画家がいます。本人によると、フランス人の父、日本人の母(ともにピアニスト)のもとアビニオンで生まれ(国籍日本)、フランス、ドイツ、日本、インドなどで教育を受け、日本とアメリカに暮らしながら、禅アーチストとして外国人に墨絵を教えていました。

♪フォーレの容姿、性格  

 中背やや太り気味、豊かな髪、卵型の顔、大きくてまっすぐな鼻、白い口髭(絶え間ない喫煙で褐色になっていた)、褐色の肌、濁声,東洋の仙人風。温厚で思慮深く我慢強い。

♪フォーレが生まれた時の世界は?

♬ 3.27エックス線を発見したレントゲンが生まれています。

♬ 二年後の1847.2.11にエジソンが生まれています。そしてその年に「嵐が丘」や「ジェーン・エアー」が発表されています

♪ フォスター 1826.7.4(文政9年)~1864.1.13(文久2年)

 スティーブン・コリンズ・フォスターは、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。

 20年間に約200曲を作曲し、その内訳は135曲のパーラーソングと28曲のミンストレルソングである。多くはメロディの親しみやすい黒人歌、農園歌、ラブソングや郷愁歌である。「アメリカ音楽の父」とも称される。

  ペンシルベニア州ピッツバーグの隣町ルイスヴィルで、アイルランド移民の曽祖父の家系を引く比較的裕福な家庭の10人兄弟の末っ子として生まれています。

 最初の歌曲は1844年に出版された「窓を開け、恋人よ」で16歳のときの作品 1846年にオハイオ州シンシナティに転居し、兄の蒸気船海運会社・アーウィン・フォスター商会で簿記係を務める。当時独立戦争後の新大陸で流行した黒人霊歌風である最初のヒット曲「おおスザンナ」を発表。これは1848年〜1849年のカリフォルニアのゴールド・ラッシュの賛歌となった。

 当時、白人が顔を黒く塗り大げさに歌うミンストレル・ショーやエチオピア風の喜劇役者の魅力に強く引きつけられていたが、その結果が1849年に出版された曲集『フォスターのミンストレル・ソング集』に結実し、クリスティ・ミンストレルズによってヒットした「やさしいネリー」が収録されている。

  1850年に結婚しニューヨークに出て次々に曲を出して売れっ子になるが、両親と兄の死をきっかけに、借金を背負うほどのひっ迫した経済状態に陥ります。

  200曲もの名作を残したフォスターが困窮に陥った理由の一つに、当時のアメリカでは作曲家という職業は認められていなかった。音楽著作権法も無く出版社の印税も名ばかりで少なかった。そして、多くの出版社がフォスターの曲を競って出版していたため、違う出版社から同時に同じ曲が出版されることもあったが、フォスターには一セントも支払われなかった。

  フォスターは有名になることや金銭に関することは無頓着であったため、売れっ子になる前には出版社に言われるままに自分の名前ではなく、有名な作曲家の名前で出版されておりそれが収入につながらなかったのも理由の一つでした。

 生活苦の果てに妻子は去り、一人になったフォスターは酒に溺れ、浮浪者扱いをされるほど落ちぶれ、廃屋のような家の地下牢に寝泊まりし、近くのレストランのマネージャーの好意で料理の施しを受けていました。

 1864年1月10日ホテルの一室で粉々に砕けた洗面台の脇に倒れていたのを作詞家のクーパーが発見。頭部と頸部から大量の出血があったため、病院に運ばれたが3日後に死亡。37歳没。この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけであった。

 フォスターの死を知らされた妻ジェニーは遺体と対面するやその場で泣き崩れたと伝えられている。クーパーが発見。頭部と頸部から大量の出血があったため、病院に運ばれたが3日後に死亡。37歳没。この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけであった。

♬ 1862年の作品「夢見る人」(「夢路より」)が発表されたのは死後2か月後のことである。

♪フォスターが生まれた時の世界は?

♬ カール・マリア・フォン・ウェーバー(魔弾の射手などの作曲家)没(6.5)

♬ クラーク博士(札幌農学校初代教頭)誕生(7.31)

♬ 翌年(1827.3.26)ベートーヴェン没

♪  藤倉  大(ふじくら だい)摂津市出身の世界的作曲家。1977.4.7(昭和52年)~ 

大阪府摂津市立第三中学校卒業後、1993年15歳で単身イギリスに渡りドーヴァーの高校を出たあと、トリニティ・カレッジ・オブ・ミュージックでダリル・ランズウィックに師事。数々の作曲賞を受賞。ザルツブルグ音楽祭、ルツェルン音楽祭、BBCプロムス、バンベルク響、シカゴ響、アンサンブル・アンテルコンタンポラン、シモン・ボリバル響、アルディッティ弦楽四重奏団等から委嘱され、国際的な共同委嘱もますます増えています。これまでに、ブーレーズ、エトヴェシュ、ノット、ドゥダメル、アルミンク、リープライヒ、井上道義、山田和樹らが藤倉の作品を初演・演奏している。

 2014年4月、名古屋フィルハーモニー交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンスに就任。2015年3月には、シャンゼリゼ劇場、ローザンヌ歌劇場、リール歌劇場の共同委嘱によるオペラ「ソラリス」がシャンゼリゼ劇場にて世界初演され、現地メディアからの評価も高い。2006年BBC委嘱の「クラッシング・ツィスター」がBBCコンサート・オーケストラ、チャールズ・ヘイズルウッド指揮によって初演。

♬ 2012年にNMCレーベルより作品集CD《Secret Forest》リリース。2014年に初のオペラ「ソラリス」を脱稿。現在は全作品が「リコルディ・ベルリン」から出版および貸与。2009年3月以降は妻子とともにロンドン在住で、母校で教鞭をとっています。

♬ 2010.2.21 毎日放送のドキュメンタリー番組「情熱大陸」で特集されました。

♬ 現代音楽の作曲家として世界的に有名ですが、直木賞と本屋大賞を受賞した「蜜蜂と遠雷」の映画(2019.10公開)において演奏されるコンクールの課題曲作品「春と修羅」と出演者ごとにカデンツァを変えた演奏楽譜の作曲などもしています。

♬ 2017年には東京芸術劇場にて開催されたボンクリ・フェスのアーティスティック・ディレクターに就任。2019年現在も継続されています。

♪受賞歴

・カジミェシュ・セロツキ国際作曲コンクール第1位および最年少出場者特別賞 (1998年, ポーランド)

・ハダースフィールド国際作曲コンクール優勝(1998年、1999年)

・ルイジ・ルッソロ国際電子音楽作曲賞入選 (2003年, 2004年 イタリア)

・ロイヤル・フィルハーモニック作曲賞(最終選考入選 2003年、作曲賞2004年、イギリス)

・尾高賞 (2009年, 2015年、2019年)

・芸術選奨文部科学大臣新人賞音楽部門(2019年) など多数

♪藤倉大が生まれた時の世界は?

♬ 誕生前年に政財界を巻き込んだ国際的な贈収賄事件「ロッキード事件」が起こっています。

♪ プッチーニ 1858.12.22(安政4年)~1924.11.29(大正14年)

  ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニは、イタリアの作曲家。その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。

 イタリアのルッカに生まれ、ベルギーのブリュッセルで没。

  プッチーニ家は、18世紀から連綿と続くルッカの宗教音楽家の家系であるが、中には器楽作曲家もいた。この中で唯一オペラ作曲家を目指し、なおかつ今日、唯一世界的音楽家として名声を残したのがジャコモ・プッチーニである。

 わずか5歳のときに父親ミケーレが没したため、叔父フォルトゥナート・マージより、温情をもって教育を与えられる。最初は教会オルガニストの職を得るが、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『アイーダ』の上演に接して、オペラ作曲家を志した。

 第3作の『マノン・レスコー』は大成功となったばかりか、優れた台本作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの協力をももたらすきっかけとなった。この2人の協力のもとに、『ラ・ボエーム』と『トスカ』、『蝶々夫人』の3曲が書かれた。

 このうち『ラ・ボエーム』はプッチーニの最高傑作としてのみならず、それまでのプッチーニ作品の中では最もロマンティックなオペラの1つに数えられている。

 『トスカ』はその露骨な暴力描写、主役3人が舞台上で死ぬストーリー、そして扇情的な音楽などが話題となった。

 『蝶々夫人』は、初演時には敵意(そのほとんどはプッチーニのライヴァル達によって組織されたものであったが)をもって迎えられたが、後にかなり手直しされてからは、プッチーニの最も成功した作品のひとつになった。

♬ プッチーニはヘビースモーカーとして知られていたが、1923年末に喉頭癌であることが判明。翌1924年、治療のために滞在中のブリュッセルで、手術後に合併症を起こして急死。

♪プッチーニが生まれた時の世界は?

♬ 英ヴィクトリア女王の長女ヴィクトリア王女とプロイセン皇太弟ヴィルヘルム(後のヴィルヘルム1世)の長男フリードリヒ(後のフリードリヒ3世)の結婚式(1.25)で メンデルスゾーンの結婚行進曲が演奏され同曲が有名になる

♬ ミキモト創業者の御木本幸吉誕生(3.10「安政5年1.25」)

♬ 井伊直弼が大老に就任(6.4「安政5年4.23」)

♬ 浮世絵師の歌川広重没(10.12「安政5年9.6」)

♪ ブラームス 1833.5.7(天保4年)~1897.4.3(明治30年)

  音楽史の本に書いてあるシューマン夫妻とヨハネス・ブラームスの有名な話です。

  シューマンはピアノをヴィーク先生に教わっていましたが、その先生にはクララという娘さんがいて作曲家で一流のピアニストでした。やがてシューマンはクララと恋に落ちて、反対していたお父さんも承諾、二人は結婚しました。 しかし、最初は順調だった結婚生活も、そのまま作曲とピアニストを続けているクララの方が有名で収入も多く、悩むあまりに、精神の均衡がとれなくなってしまったのです。(こんな話は現代でもありそうですね。)そんな頃、43歳のシューマンのもとに一人の若者が訪れました。弱冠20歳のブラームスです。

 シューマンはブラームスを高く評価し、ブラームスもシューマンを尊敬して慕い、頻繁にシューマンの家を訪れるようになったのですが、シューマンは34歳の妻クララとブラームスの仲を疑うようになり、自己嫌悪に陥って精神をやられてしまい精神病院に入院。そして亡くなってしまいました。 そして、未亡人になったクララをブラームスは献身的に支えたそうですが、生涯独身をとおしたブラームスとの関係は誰も知ることのできない永遠の謎。

 さて、ブラームスにとってこのクララという女性というのは、音楽の恩人であるロベルト・シューマンの奥さんであり14歳も年上の女性です。ブラームスは一生独身を通し、ロベルト・シューマンの病死後も結婚せず、クララへの純愛を貫いた……  ブラームスとクララは恋愛関係にあった。ロベルト・シューマンはそのことを知り、自暴自棄になって脳梅毒を煩い、ライン川に投身自殺を図り、救助されたのち療養所に収容され46歳の若さで死んでいく。この辺りのことは音楽史家の間で解釈が違うようですが……

♪ブラームスの容姿、性格

 青年時代は金髪で碧い眼をしたボーイズ・ソプラノの超美青年。後年は肥満体。髭面のむさ苦しいおじさんになっています。シビアな仮面の下には大いなる人情家でありました。 酒場で演奏していたこともあり、13歳からアルコールの味を覚えています。

♪ブラームスの結婚観

♬ ブラームスは対外的には「適当な地位」と「確実な収入」が無かったために結婚できなかったと語っていました。彼にとって結婚とは「固定された月々の収入と、高い地位の保持者に対して支払われる社会的基盤の上にのみ許されるもの」だったようで、結婚を考えずには恋愛できないという矛盾した考えを持っていたようです。

♪ブラームスの第1交響曲

♬ ブラームスはベートーヴェンの交響曲を意識し、交響曲の作曲を目指しますが着想から完成までに21年という歳月を要しました。(通常は数か月から数年で完成するといわれています。ブラームスもこの後の交響曲第2番は翌年に完成させています)。                        

♬ この交響曲第1番はベートーヴェンからの交響曲の系譜を正統的に受け継いだ名作として聴衆に受け入れられ、ベートーヴェンの第10交響曲と言われるほど絶賛されたそうです。                   

♬ また、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスの三人は(ドイツ)音楽の三Bと言われています。

♪ブラームスが生まれた時の世界は?

♬ 同年にノーベル賞を創設したノーベル(10.21)そしてロシアの五人組の一人ボロディン(10.31)が生まれています。

♬ フランスの写実主義・印象派の画家エドゥアール・モネ(1.23)は一歳年上。

♬ フランスの印象派・画家エドガー・ドガは一歳年下になります。

♬ チャイコフスキーは7歳年下。

♪ ブルックナー 1824.9.4(文政6年)~1896.10.11(明治29年)

  ヨーゼフ・アントン・ブルックナーは、オーストリアの作曲家、オルガニスト。交響曲と宗教音楽の大家として知られています。

 学校長兼オルガン奏者を父としてオーストリアのリンツにほど近い村アンスフェルデンで生まれた。この年はベートーヴェンが交響曲第9番を、シューベルトが弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』を書いた年。しかしながら同じオーストリア帝国とはいえ、アンスフェルデンのブルックナー少年の生活は首都ウィーンの華やかな音楽史とは無関係なものでした。

 一般的には後期ロマン派に位置づけられ、作曲技法的にはベートーヴェン、シューベルトの影響を、管弦楽法、和声法ではワーグナーの影響を受けていると言われている。そしてグスタフ・マーラー、フランツ・シュミットなどに影響を与えています。

♬ 金子建志によると、1959年にカラヤン=ウィーン・フィルの来日公演でブルックナーの交響曲第8番が演奏された際、「『ブルックナーだけでは客の入りが心配』という日本側の要望でモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークも演奏することになった」という逸話もあったという。その後、日本人指揮者では朝比奈隆が1970年代にブルックナー交響曲全集を録音した他、その後もブルックナーを数多く指揮した。

♪交響曲の特徴

• ブルックナー開始 :第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法であり、交響曲第2、4、7、8、9番に見られる。

• ブルックナー休止:楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法。

• ブルックナー・ユニゾン :オーケストラ全体によるユニゾン。ゼクエンツと共に用いられて効果を上げる

• ブルックナー・リズム :(2+3) によるリズム。第4、6番で特徴的である。(3+2)になることもある。初期の稿では5連符として書かれていたものが、改訂稿ではブルックナー・リズムに替えられている例も見られ、金子建志はこれを演奏を容易にするための改変だったのではないかとしている。

• ブルックナー・ゼクエンツ :ひとつの音型を繰り返しながら、音楽を盛り上げていく手法。いたるところに見られる。

• コーダと終止:コーダの前は管弦楽が休止、主要部から独立し、新たに主要動機などを徹底的に展開して頂点まで盛り上げる。

♪ブルックナーが生まれた時の世界は?

♬ スメタナも同じ年の生まれ。(3.2)

♬ ベートーヴェンの第九交響楽が初演(5.7)

♬ シーボルトが鳴滝塾(蘭学)をつくる。

♪ プロコフィエフ 1891.4.23(明治24年)~1953.3.5(昭和28年)

 セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフは、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。 農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた父と母の息子として生まれた。プロコフィエフ家には、はじめ2人の娘が生まれたが、2人とも幼くして世を去ったので、3番目の子供セルゲイは特別注意を払って育てられた。

 帝政期のロシアに生を受け、13歳でサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。革命後、シベリア・日本を経由してアメリカへ5回渡り、さらにパリに居を移す。20年近い海外生活の後、1936年に社会主義のソヴィエトへ帰国。作風は、こうした外的な環境に応じて大きく3つの時期に区分できる。

ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。 交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。

♬ 1918年(27歳)「古典交響曲」の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。教育人民委員アナトリー・ルナチャルスキーは、「君は音楽の革命家だ。我々は生活の革命家なのだ。手を取り合うのは当然ではないか。それでも行くというのならば邪魔はしないが…」と説得に努めたが、彼の亡命の意志は固かった。

♬ 1918年5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日、東京に到着。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことになる。11日までは東京、横浜周辺に滞在。12~18日、京都に滞在し、琵琶湖疏水、祇園などを散策。13日には大阪を訪れている。19〜28日、奈良に滞在し、奈良ホテルに宿泊。奈良公園周辺を散策している。この奈良滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった「白鍵四重奏曲」の構想を練っている。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19〜21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日には東京で9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日、離日。このプロコフィエフの日本滞在は、ヨーロッパの大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄や徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。プロコフィエフはサンフランシスコに上陸し、9月にはニューヨークへ到着した。

 1920年代後半にはしだいに祖国復帰を考えるようになり、1927年に短期間だけ帰国を果たす。この2年後の1929年のモスクワに於ける演奏会シリーズに着手する寸前、交通事故に遭い手を損傷したために公演を中止せざるを得なくなるが、これによって新しいソビエト音楽を数多く聴き、何年かぶりにロシアの音楽家たちとの交流をするきっかけとなって母国への帰郷に導く役割を果たしたという。

♪プロコフィエフが生まれた時の世界は?

♬ 同年、シベリア横断鉄道が着工され、エジソンがキネストコープ(映画を上映する装置)の特許を出願しています。

♬ 前年、森鴎外が「舞姫」を完成させ、教育勅語が発布されています。

♬ 翌年、童謡作詞家の西條八十が生まれ(1.15)、クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱しています。

♪ ベートーヴェン 1770.12.16頃(明和7年)~1827.3.26(文政10年)

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン以前の作曲家、例えばバッハは教会で宗教を広めるため作曲をしていました。ヘンデルは貴族に仕えて楽器の指導や貴族の求めに応じて作曲をしていました。モーツアルトも依頼を受けて好きな曲を作曲していました。

♬ しかし、ベートーヴェンは音楽を精神論や思想的表現の手段と考えていて音楽を「芸術だ」と言った最初の音楽家であり、「自らの考え」を音楽にして、楽譜を出版し販売して生計を立てた最初の音楽家でした。

♬ でも作曲だけでは生活できないのでピアノの先生もしていましたが……

2020年はベートーヴェン生誕250年記念の年になります。

♪ベートーヴェンは……

♬ベートーヴェンが16歳の時。31歳のモーツァルトに師事するためにボンからやってきます。モーツァルトから与えられた主題で即興曲を演奏して見せ、モーツァルトも才能を認めたけれど、多忙のため指導することはなかったようです。

♪ベートーヴェンが……

♬ ベートーヴェンは曲のテンポを決める速度記号は曖昧であるなどとの理由から、譜面には♩=120などとメトロノームを利用した表記をしています。

♬ ベートーヴェンは1808年に初演された交響曲第5番で、史上初めて交響曲にピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンを導入しています。当時の管弦楽では「珍しい楽器」だったこれらの楽器がやがて管弦楽の定席を占めるようになったことを考えると、後の管弦楽法に与えた影響ははかり知れないですね。

♪ベートーヴェンの容姿、性格 

 身長160㎝弱、剛髪、褐色の瞳でデコッパチ、大きな鼻と突きだした下唇、骨太で猫背、粗野、左利き、悪筆家。性格は不器用で短気、孤独。良くも悪くもエゴイストだったと云います。ルックスで女心をくすぐる要素はほぼなかったようです。でも、その粗野な態度も周りに軟弱な男性が多かった貴族の女性達にとって魅力的だったのかもしれないですし、天才音楽家が難聴になっていったことが母性本能をくすぐっていたのかも知れないですね。

♪ベートーヴェンの名前

 名前はオランダ語でビートが砂糖大根、ホーヴェンが農家という意味。つまり「ベートーヴェン」は「大根農家」ということになります。  大根も音楽も「モノづくり」という共通項があるから違和感はないかな?

♪ベートーヴェンの私生活

♬ 純愛で一途だったベートーヴェンは生涯独身でしたが、彼の作品番号より数多いガールフレンドが居たともいわれています(ホモセクシュアル、バイセクシュアルとの説もあるようです。)

♬ 甥っ子のカールを養子にし、異常なほどの愛情を見せ、実母(ベートーヴェンの弟の妻)と親権を争って裁判沙汰になっています。(自分の子供が欲しかったのでしょうか!?)

♬ カフェインとニコチン、アルコールは何があっても欠かせない人だったようです。そして、自由、平等、博愛の気持ちが強い人でした。

♬ 整理整頓が大の苦手。ピアノの上に楽譜の山、ピアノの下には「おまる」が置いてあるような生活で、入浴は昼夜関係なく服を着たままでも浴槽に入り、水は出しっぱなしで大声で歌い出すことも多かったため、家主に追い出され、引越し回数が多かったことでも有名です。(多い時は1日に2回も引越し)

♬ また、当時高価だった卵が大好きで自分で選ぶほどでしたが、気に入らないことがあるとメイドの背中に生卵をぶつけて怒っていたそうです。

♪ベートーヴェンの曲

 ベートーヴェンの交響曲。奇数番号は男性的で、偶数番号は女性的といわれています。

♬ 英雄として有名な第3交響曲は自由、平等、博愛を民衆に広めると思っていた1歳年上のナポレオンを想い「ナポレオン」というタイトルで作曲していましたが、ナポレオンが皇帝になったため失望し、タイトルを穴の開くほど消しています。

♬ 第5番の運命と第6番の田園は同時進行で作曲されており、発表も一緒で、初演時のプログラムでは番号が反対だったともいわれています。

♬ 喜びの歌で有名な第9交響曲は、初の合唱入り交響曲として有名です。初演の際は満員のお客さんが喝采をし、演奏会は大成功となりました。その結果、収入が多くなると大喜びしたベートーヴェンでしたが、大編成のオーケストラや合唱団等への支払いが多くなり、手元に入ったお金が少なく落ち込んでいたそうです。人間的な一面が見られますね。

♬ 「英雄」「田園」「悲愴」「告別」はベートーヴェンのアイデアですが、「月光」「熱情」「皇帝」「葬送」は商魂たくましい出版社によってつけられたタイトルです。第5交響曲を「運命」と呼ぶのは日本だけで、命名者は日本のレコード会社といわれています。

♬ また、年末に第9を頻繁に演奏するのは日本だけで、オーケストラ関係者の年越しのお金を稼ぐために考えられた結果です。

♬ 最後にベートーヴェンが一番気に入っていた交響曲は何番かご存知でしょうか?それは自らが革命的な技法を駆使した第3交響曲「英雄」です。

♪第9交響曲の呪い

 ベートーヴェンが交響曲第9番を完成させた後、交響曲第10番を完成することなく死去したことに端を発する呪い(?)です。 グスタフ・マーラーが「第9の呪い」を恐れて、交響曲第8番の完成後次に取り掛かった交響曲を交響曲として認めず『大地の歌』と名づけたという逸話が知られています。マーラーはその後に交響曲第9番を作曲しましたが、交響曲第10番は未完に終わっています。 実際に「交響曲第9番」作曲と前後して死去した主要な作曲家は、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー、ヴォーン・ウィリアムズなどがいます。ただしブルックナー、マーラーは番号のないものを含めると生涯に10曲以上の交響曲を完成させています。

♪宗教

 ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかったようです。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔にされたユダヤ人にすぎない」と発言したとのことです。

♪ベートーヴェンが生まれた時の世界は?

♬ ナポレオンは一歳年上

♬ 誕生前年にジェームス・ワットが実用的な蒸気機関を開発

♬ 誕生翌年に田沼意次が老中になっています

♪ ベルリオーズ 1803.12.11(享和3年)~1869.3.8(明治2年)

 ルイ・エクトル・ベルリオーズは、『幻想交響曲』でよく知られているフランスのロマン派音楽の作曲家。この他に『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りしています。

♬ 生前のベルリオーズは、作曲家としてより指揮者として有名でした。定期的にドイツやイングランドで演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮。自作だけでなく他人の作品も指揮しており、中にはリストのピアノ協奏曲第1番の初演なども含まれています。リストによると、指揮者ベルリオーズはリハーサルを多用する“練習魔”だったという。

♬ ヴァイオリンの超絶技巧者にして作曲家のニコロ・パガニーニとの出会いからは『イタリアのハロルド』が生まれ(パガニーニの依頼で書かれたがヴィオラの活躍が少ないのに失望した、という逸話は今日では信憑性が疑われている)。ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万フランを提供した。

♬ ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていました。

♪影響を受けた音楽家

♬ ベルリオーズは当時フランスではさほど有名でなかったベートーヴェンの擁護者でした。1828年にフランソワ・アントワーヌ・アブネック(『幻想交響曲』の初演指揮者)指揮パリ音楽院管弦楽団によって行われた『英雄交響曲』のパリ初演はベルリオーズの作曲活動における転回点となり、2年後の1830年に『幻想交響曲』が生み出されるきっかけとなっています。ベートーヴェンに次いでベルリオーズが崇拝したのが、グルック、メユール、ウェーバー、そしてスポンティーニでした。

♬ 『イタリアのハロルド』においてベルリオーズは、半音階や旋法、変拍子(5拍子)を採用するとともに、従来のドイツの交響曲にみられる形式的な均整感や全体的な統一感から距離を置いていました。

♬ サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の「象」の最初の主題は、『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」から取られています。しかしながら、音域は原曲よりかなり下げられ、コントラバス独奏によって演奏されています。

♪ベルリオーズと文学

 『幻想交響曲』は、トマス・ド・クインシーの『或る英国人阿片常習者の告白』に着想。 『ファウストの劫罰』はゲーテの『ファウスト』に依拠。 『イタリアのハロルド』はバイロン卿の『チャイルド・ハロルドの巡礼』が下敷き。 オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』は、チェッリーニの自叙伝に由来。 『ロメオとジュリエット』は、シェイクスピアの同名の悲劇に基づいている。

♪ベルリオーズが生まれた時の世界は?

♬ 前年(1803年)に十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」が完成

♬ 翌年にはヨハン・シュトラウス(3.14)とミハエル・グリンカ(6.1)が生まれています。そしてナポレオンがフランス皇帝に即位(~14年)しています、

♪ ヘンデル 1685.2.23(貞享2年)~1759.4.14(宝暦9年)

  ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはドイツ生れで、家系には音楽家はいませんでした。医者と理髪業を兼業としていた父親は音楽家になることを反対し法律を学ばせました。母親は音楽に理解があり、父親に内緒で屋根裏部屋へそっとチェンバロを運んで、彼に練習をさせてくれました。そのような状況でヘンデルは熱心に練習を重ね、17才でハレの大寺院のオルガン演奏を許されるほどの腕前にまでになりました。その後父親の十分な賛同が得られないまま音楽家の道を志したのです。そして、アドルフ公爵の口添えで音楽家の道を進んでいきました。そして25歳(1710年)でイギリスに帰化し、人生の1/3をすごしています。

♬ ヘンデルがドイツのハノーファーの宮廷に仕えていた頃の主君ハノーファー侯が,何と後年イギリス国王に就任し,ジョージ1世としてヘンデルのいるイギリスヘやって来ました。ヘンデルはハノーファー侯の再三の帰国命令を無視してイギリスに居付いていましたので,「これは困った」ということになりました。そのご機嫌を取るために作った曲が「水上の音楽」で、王がテームズ川で舟遊びをするときのために、壮大な管弦楽曲を作曲・演奏して、めでたく和解した、という話がありました。……この話は少々出来すぎたところがあります。この曲が出来た時、すでに彼らは和解していたとも云われています。

♬ 「ハレルヤ・コーラス」で有名な『メサイア(救世主)』などオペラ作品で有名になりました。当時はバッハよりも有名な作曲家でした。1743年、初めてロンドンで演奏された際、国王ジョージ2世が、「ハレルヤ」コーラスの途中に起立し、後に観客総立ち(スタンディングオベーション)になったという逸話があります(現在では、史実ではないと考えられていますが)。 

 これは、かつて英国で全知全能の神を讃える歌が演奏される際には起立する習慣があったことによるもので、日本のコンサートにおいて聴衆が「ハレルヤ」で立ち上がるのは、この逸話に端を発しているからとも云われています。 しかし「ハレルヤコーラス」は「メサイア」の2部最後に歌われ、その時国王が立ち上がったのは、この曲が素晴らしいというよりも3部構成(2時間半50曲)の演奏時間に疲れ果てた国王が2部最後の合唱になったことで喜んで立ち上がったからだとも云われています。

♬ 英語名でジョージ・フリデリック・ハンデルと呼びますが日本ではもっぱらゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとドイツ名で知られ、ドイツの作曲家として扱われるのが通例です。

♪ヘンデルの生まれた時の世界

 作曲家のおはなし おまけ をご覧ください

♪ ホルスト 1874.9.21(明治7年)~1934.5.25(昭和9年)

 グスターヴ・ホルストは、イギリスの作曲家。最も知られた作品は、管弦楽のための組曲『惑星』ですが、全般的に合唱のための曲を多く遺しています。イングランド各地の民謡や東洋的な題材を用いた作品、また、吹奏楽曲などでも知られています。

 スウェーデン・バルト系移民の家系に生まれ、10代のころからすでに作曲を試みています。1893年、ロンドンの王立音楽院に入学してパリーやスタンフォードの下に音楽を学んでいます。王立音楽院ではトロンボーンも学び、卒業後はオーケストラ奏者として生計を立てていたこともあります。この学生時代にヴォーン・ウィリアムズと知り合い、とくに故郷を同じくグロスターシャーとすることもあり、親交を深めた。

♬ スペインを旅行した際にクリフォード・バックスから占星術の知識を得ており、おそらくこのことがきっかけとなって、ホルストは組曲『惑星』を作曲したと考えられます。 ホルストの名声は1920年に初演されたこの曲によって一気に高まりました。やはり1920年に初演された『イエス讃歌』も大成功でした。ホルストはその後も多くの作品を発表しましたが、『惑星』以上に名声を博す作品を遺すことはありませんでした。

♬ 1934年、出血性胃潰瘍のためロンドンにて逝去。59歳没。エドワード・エルガーとフレデリック・ディーリアスも同じ年に没しています。

♬ 「吹奏楽のための組曲」はレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの『イギリス民謡組曲』、パーシー・グレインジャーの『リンカンシャーの花束』などと並び、吹奏楽の分野における古典的な演奏会用作品としてきわめて重要な位置を占めています。

♬ 小惑星 (3590) のホルストは、グスターヴ・ホルストにちなんで命名。

♪ホルストが生まれた時の世界は?

♬ 十二音技法を創始したシェーンベルクが9.13に生まれています

♬ 日本では警視庁が設立され、板垣退助らが国会設立を要請しています。

♪ ポール・マッカートニー 1942.6.18(昭和17年)~ 

 ジェームズ・ポール・マッカートニーはイギリスのミュージシャン、シンガーソングライター。マルチプレイヤー。『ギネス世界記録』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載。1960年代にはロックバンドのビートルズのメンバーとしてジョン・レノンと共に多くの楽曲を作詞作曲してヴォーカルと演奏を担当。ビートルズ解散後はウイングス(ポール・マッカートニー&ウイングス)のメンバーまたはソロ・ミュージシャン名義で活動。左利き。ベジタリアン。デビューから半世紀以上が過ぎた現在も第一線で活躍を続けている。制作した楽曲は2019年までで500曲以上。

  「イエスタデイ」「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」など、ビートルズの代表作とされる楽曲を数多く作詞・作曲している。解散後の1970年代にはウイングスのリーダーとして「ジェット」「愛しのヘレン」「ハイ・ハイ・ハイ」「ジュニアズ・ファーム」「メアリーの子羊」「アイルランドに平和を」などの優れた楽曲を発表した。1980年代以降はソロとして活動し、全米チャート第1位に9曲、トップ20に20曲以上がランクインしている。2000年代以降も作品を発表し続け、近年ではクラシック音楽も手がけている。

 ビートルズ時代から現在に至るまで、バンドでは主にベース(レコーディングではギターやキーボードも)を演奏しているが、近年はコンサートでもギターを演奏しギタリストとしての一面を見せる事も増えている。彼のメロディアスなベースラインは評価が高く、後のロックバンドにも多大な影響を与えたと言われる。他にもシンセサイザー、キーボード、ドラムス、ウクレレ、フラットマンドリン、またトランペットやサックスなどといった管楽器をも扱うマルチプレイヤーである。「タックスマン」「涙の乗車券」などビートルズ時代のいくつかの曲でリードギターを担当し、また「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」「ディア・プルーデンス」「ジョンとヨーコのバラード」などでドラムスを叩いている。ソロ・アルバム『マッカートニー』や『裏庭の混沌と創造』では全ての楽器を一人で演奏(マルチレコーディング)している。

 作曲技法ではクラシック音楽、ベースではモータウンのジェームス・ジェマーソン、ボーカル・スタイルでは「リトル・リチャード」の影響が強い。ロック・ナンバーを歌いこなすほか、バラードにおける甘い歌声や、唸りを効かせた歌唱法など、多彩なボーカルを聴かせる。ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、コーラスの一人多重録音も盛んに行っている。信条は環境保護、動物愛護、平和主義、差別反対。ポールの差別反対が顕著に出ているのが、「ゲット・バック」の変更以前の最初の歌詞である。ポールは、英国保守党内閣の元大臣で差別主義者の、イノック・パウエルによる差別的な「血の川」演説に反発していた。最初のバージョンは、人種差別を告発し、米国と英国の移民に対する態度を批判していた。「プエルトリコ人はアメリカにいらない」「パキスタン人、仕事を奪ってはいけない」などの歌詞が含まれていた。元のタイトルは “(Don’t Dig) No Pakistanis”(「パキスタン人は要らない」)だったが、レコード会社の懸念と、歌詞が逆の意味に誤解される危険性があったので、発表されたヴァージョンに変更された。

♪ポール・マッカートニーが生まれた時は?

♬ ジャズピアニストの山下洋輔(2/26)、作曲家の三枝成彰(7/8)、ジャズトランペッターの日野皓正(10/25)が同じ年に生まれています。

♬ ビング・クロスビーの「ホワイトクリスマス」が大ヒットしています。

♬ アンネ・フランクがアムステルダムの隠れ家で日記を付け始める。(アンネの日記)

作曲家
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音楽のおはなし ~ライムさんの知得音楽~

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